書を捨てよ、BARに行こう~緊急事態に酒愛を⑬
おとなになるとなんでもじぶんできめなくちゃいけなくて。
そのくせ社会はきまりがおおくて。
大人だからやっちゃだめなこととか。
大人のくせに、それは恥ずべき事だとか。
苦手なら、ことさら克服する努力をしなくては駄目だとか。
理不尽な攻撃に耐えてこその立派な社会人だとか。
ルールは常に複雑化していて、空気を読めないのは社会人としてのクオリティが低いだとか。長いものには巻かれていろだとか。
働くことと、会社に勤めることと、シアワセに暮らしていることが、全部バラバラに感じてしまったりして。昔話のおじいさんとおばあさんは、貧乏で子どもがなくてもシアワセに暮らしていたはずなのに、結局裕福になってシアワセになりましたっていうエンディングには到底納得できなかったりして。
来る日も来る日も、職場と家とだけを往復していた。何がどう幸せに繋がっているのかを確かめたくて、友人からの誘いにも応じず、ひたすら本を読む日々だった。けれど、どれほど検索しても、どこからも、それを、見つけることはできなかった。
この季節にしては肌寒いが、程よく人通りの少ない、散歩にはぴったりな平日だった。少しかしいだドアを開けると、その軋みが来客を知らせる。カウンターの向こうには、穏やかな佇まいの変わらぬ笑顔があった。
「いらっしゃいませ、お久しぶりですね。」
「なんか、外に出てなかったんですよ。随分。」
「本を読んでばかりではダメですよ。『書を捨てよ、町に出よう』です。何をお作りしますか?」
「温かいカクテルを」
差し出されたのは、とびきりの甘さが嬉しいホット・バタード・ラム。そこからの会話はなく、ぼんやりとマスターの手元を見ているだけの時間をすごした。
言葉にならなかった想いの出口は、いったいどこにあるのだろうと、もうずっと長い時間考え続けていた。
”書を捨てよ町へ出よう”
帰りのタクシーの中、少しだけ視界が歪んだ。
恥ずかしくなって、随分手前だったけど車をとめてもらった。
歩くのか走るのかそれともコースを変えるのか。
少しくらい引き返したって止まるのはやめようと決めていた。だから。
僕は、ずっと引き出しにしまい込んでいた退職願に今日の日付を記入した。
僕に生きるヒントをくれた、大切な、サードプレイスを見つけた日付。
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