忘れ物の二百両
中江藤樹は近江国(滋賀県)生まれの学者で、日本で初めて陽明学(儒学の一派)を唱えた人です。
学者にありがちな難しい理論は説かず、庶民に分かり易く、道徳の大切さ、人としての生きる道を教え、世に「近江聖人」と仰がれました。
その弟子に熊沢春山がいます。
蕃山は岡山藩主・池田光政の側小姓でしたが、20歳の時に学者を志して暇をもらい、知人を頼って近江へやって来ました。
そして京に入ろうとした時、ある茶店で自分の将来を決定付ける次のような噂を聞きました。
先日この辺りで、飛脚がさる大藩から託された二百両を道中で馬の鞍に置き忘れたことに気付きました。
「どうしよう」と顔面蒼白になっているところへ、もと来た道のほうから馬子が先ほどの馬を引いて戻ってきて、飛脚に置き忘れた二百両の包みを渡しました。
生き返った思いの飛脚は、喜んで十両の金を謝礼として差し出しました。
ところが馬子は頑として受け取りません。
「世知辛いこのご時世に、なんと殊勝な事だ」
と飛脚が感心すると、馬子は言いました。
「当たり前のことをしただけなのに、何でそんな不思議そうな顔をなさる。このあたりの者は、日頃から小川村の中江藤樹先生の教えを守って暮らしているだけだ」
蕃山はこう思いました。
馬子をもここまで感化するとは並大抵の人物ではない。
これこそ生きた学問だ。
わが師と仰ぐべきは、この方しかいない。
急いで小川村に向かい、熱心に中江藤樹に入門を乞いました。
しかし、なかなか承知しません。
「私はこの田舎で、我流の学問をしているだけの者です。とても貴方にお教えする自信はありません」
こう言いました。
番山は諦めることなく、断られても断られても入門を乞うたので、遂に藤樹も根負けして入門を許しました。
やがて蕃山は藤樹の高弟となって、陽明学を隆盛に導いて行くことになります。