舟山 華織

教育分野で名の知れた国立大学で学生しています。 のんびり更新しています。 先祖が東北な…

舟山 華織

教育分野で名の知れた国立大学で学生しています。 のんびり更新しています。 先祖が東北なのが影響しているのか、暑さに弱く、寒さに強いタイプです。 毎年、夏から秋はちょっとした命のやり取りゾーンになっています。 よろしくお願いします。

マガジン

  • 歴史から学べる教養 まとめ

    日本の歴史を中心に、教養が身につく素敵なお話をまとめています。

  • 戦時のお手紙 まとめ

    世界が戦火に巻き込まれた時代、日本を守り抜いてくれた英霊たちのお手紙をまとめています。

最近の記事

横綱になるまでは

明治の名横綱と謳われた常陸山谷右衛門が引退して、出羽の海親方として後進を育てていた大正時代のお話です。 稽古を眺めていた常陸山がいきなり立ち上がりました。 動きの鈍い弟子の一人を捕まえると、傍らに転がっていたつっかえ棒で散々に打ち据えました。 「相撲取りが稽古を怠けてどうする! もうやめて田舎に帰っちまえ!」 まだ顔に幼さの残る弟子は、痣だらけになった身体を土俵に擦り付けて「それだけは 勘弁してください!」と謝りました。 何となく集中できず、稽古に身が入らなかったのは事

    • 海軍少佐 吹野 匡

      神風特別攻撃隊 旭日隊 昭和20年1月6日 フィリピン沖にて戦死 鳥取県米子市淀江町出身 26歳 母上様 十九年十二月二十一日 匡 私は長い間本当にご厄介ばかりおかけして参りました。 色々の不孝の上に今また母上様の面倒を見る事もなしに先立つ不孝をお許し下さい。 昨秋、私が海軍航空の道を選んだ事は、確かに母上様の胸を痛めた事と思います。 常識的に考えて、危険性の少ない道は他に幾らもありました。 国への御奉公の道においては、それでも充分果たされたかも知れません。 しかし

      • 童心を忘れず

        子供らと 手まりつきつつ この里に あそぶ春日は 暮れずともよし 良寛は越後国(新潟県)三島郡出雲崎の名主の長男として生まれ、18歳で出家、33歳のとき備中国(岡山県)の補陀洛山・円通寺で厳しい禅の修行をして印可を受け、一人前の禅僧となりました。 その後、諸国を行脚して越後に戻り、国上山の五合庵に落ち着きました。 40歳の時でした。 良寛はこの五合庵でおよそ15年を過ごしています。 晴れた日には近在を托鉢して歩き、雨の日は詩や歌を作って過ごしました。 良寛の詠んだ短歌です

        • 陸軍大尉 安原 正文

          第8飛行師団 特別攻撃隊 昭和20年3月29日 沖縄奥武島付近の海面にて戦死 高知県出身 25歳 沢山貰った御手紙は、みなポケットに入れて持って行きます。 御守袋(御人形の寝ている)も忘れずに連れて行きます。 コリントももう出来なくなりましたが、これからは兄ちゃんは、御星様の仲間に入って、千鶴ちゃんが、立派な人になるのを見守っています。 泣いたりなどしないで、朗らかに笑って、兄ちゃんが手柄を立てるのを祈って下さい。 御父さんや御母さんの言い付けを守って、立派な人になって下さ

        横綱になるまでは

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        • 歴史から学べる教養 まとめ
          10本
        • 戦時のお手紙 まとめ
          13本

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          心を鬼にして、家臣を叱る

          本多正信は、江戸幕府草創期、徳川家康の重臣として活躍し、家康から「わが右腕」とまで信頼された人物です。 その正信が、江戸城に詰めていた時のお話です。 一枚隔てた隣の部屋から家康の怒声が聞こえてきました。 相当の怒りようです。 耳をそばだてて聞いてみると、何か粗相をした近習を家康が叱りつけている様子です。 その近習は真面目な男なのですが、しかし家康の怒りは治まりそうもなく、まだ叱りつけています。 その様子を感じ取ると、正信は襖を開けて隣の部屋に飛び込んで行きました。 そし

          心を鬼にして、家臣を叱る

          陸軍兵長 柴田 勝見

          昭和17年8月8日 中国中部にて戦死 ロスアンゼルス オリンピック フィールドホッケー選手  東京都出身 31歳 愛児への手紙 えみこちゃん、まいにちげんきにがっこうへいっていますか、まだおべんとうはもっていきませんか、がっこうはとてもおもしろいでしょう。 それからおうちではおかあさんのいうことをよくきいてしかられたりしないでしょうね。 かつやのおもりもよくしますか、こんどおとうさんはとおい「しな」のおくにへきていますから、このまえのときのようにときとぎおうちにかえる

          陸軍兵長 柴田 勝見

          海軍少尉 松尾 巧

          神風特別攻撃隊 第三御楯隊 昭和20年4月7日 沖縄沖にて戦死 佐賀県出身 20歳 謹啓 御両親様には相変わらず御壮健にてお暮らしのことと拝察致します。 小生もしごく元気にて軍務に精励致しております。 今までの御無沙汰おわび致します。 本日をもって私も再び特攻隊員に編成され、出撃致します。 出撃の寸前の暇をみて、一筆走らせました。 この世に生をうけて以来、十有余年間のお礼を申し上げます。 沖縄の敵空母にみごと体当たりし、君恩に報ずる覚悟であります。 男子の本懐、これに過

          海軍少尉 松尾 巧

          陸軍憲兵軍曹 相馬 竹三郎

          昭和23年4月8日 インドネシア・スラウェシ島マナドにて法務死 青森県西津軽郡鰺ヶ沢町出身 29歳 我が身は既に陛下に捧げ奉りし身にて、何等惜しくありませんが戦ひ終りました今日、国の為にたてた勲が仇となり、刑場の露と消えるのは残念至極です。 只皇国の復興と郷里に遺せる祖父弟妹の身上が案ぜられるのみです。 今後の兄上様の前途は多岐多難なるも祖父弟妹と御互に扶け合ひ、又夫婦仲良く暮されん事を望みます。 今となっては何も思ひ残す事もありません。 では兄弟よ、長い間の生涯本当

          陸軍憲兵軍曹 相馬 竹三郎

          闇討ちに遭った家臣の名誉を守る

          池田輝政は、剛毅、剛勇の武将で徳川家康の信任を得て、その娘婿となりました。 そして姫路城主としてよく臣下を愛し、西国将軍と称されていました。 それほどの名宰相ですから、その名を慕って全国から武功の者が集まって来ました。 彼らを選抜、臣下として組み入れたため、輝政の名はさらに上がったのですが、そんな或る日、土肥周防という武功の者が馬上で闇討ちに遭うという事件が起きました。 「何奴だ! 無礼者!」 そう叫んで土肥は刺客に対して刀を抜こうとしましたが、その拍子に馬が驚いて跳ね

          闇討ちに遭った家臣の名誉を守る

          陸軍伍長 松野 常夫

          昭和19年12月6日 レイテ島ブロウェンにて戦死 岩手県紫波町上平沢出身 24歳 お父様へ 懐かしの日向を後に 空征く我は 君の為 大和島根の 桜と散らん 歌ではありません唯、常夫の心に浮かんだまま書きました。 お父さんも お母さんも お元気で、長生きして下さい。 兄さん、皆さんをお願いします。 雪子や昭子も、信子や武史を可愛がってやれよ。 常ちゃんは元気で行くからね。 これから遺骨なんて洒落た「モノ」は帰らないと思いますから、何か常夫の遺品一つ満州へ送って下さい

          陸軍伍長 松野 常夫

          海軍軍属 菅谷 寛一

          昭和19年9月24日 マーシャル諸島マロエラップ島にて戦死 東京都港区飯倉出身 45歳 暫く御無沙汰して居るが、皆変わった事もなく達者で居られるが、今後とも丈夫で居てくれる様祈る。 御身一人で大変であるが多嬉子の一身上は何から何まで一切取きってやってくれる様頼む。 多忙の為どぢらへも御無沙汰して居るが田舎の兄の方へも宜しく伝言してくれる様に、何程の事もなかろうが兄と相談の上何事もやれ。 多嬉子、御前様も体を丈夫にする様心がけ、何時も明朗に、母上に従い孝養してくれ。 母は絶

          海軍軍属 菅谷 寛一

          川で溺れかかった敵兵を救う

          楠正行は、南北朝時代の武将です。 父・正成とともに、智将として南朝の後醍醐天皇をよく扶けましたが、その正行が、北朝側の足利尊氏と安倍川沿いで戦った時のことです。 足利軍一万は、安倍川沿いに楠軍を求めて連日、行軍を続けていました。 その日は、 朝から霙が降り、そのうえ強い風もあって、足利軍の足並みは乱れがちとなっていました。 楠軍はどこから襲って来るかわからない・・・ 先を行く兵士たちはぬかるむ川沿いを用心深く進みますが、後続は多少の気楽さもあって「早く行け、早く行け」とばか

          川で溺れかかった敵兵を救う

          海軍上等水兵 吉田 勝

          昭和19年8月10日 マリアナ諸島方面にて戦死 東京都北区田端出身 36歳 明子ちゃん、大変におりこうさんに、なったそうですね。 お父さんは、よろこんでいます。 よく通子とも遊んでやるとの事。 おぢいさん、おばあさん、お母さんの云うことをよくきいて、ますます良い子になって下さい。 お父さんも、ここから元気に、へいたいさんになって、見ています。 塗絵たいへんよくできました。 もっともっとかいて、なにかひとりで、かいて下さい。 自分のなまえかけますか。 まだむりですか。

          海軍上等水兵 吉田 勝

          海軍大尉 須賀 芳宗

          神風特別攻撃隊 第一正気隊 昭和20年4月28日 沖縄沖にて戦死 東京都台東区出身 26歳 昨日、今日と隊の桜も満開です。 この桜ほど美しい桜を私は未だ見た事がありません。 きっとこれも見る者の心のせいでしょう。 皆さんの去った隊内にこの綺麗な桜に囲まれていささか感傷に溺れました。 それは決して淋しい物悲しいホームシックではないことは断言できます。 恵まれた両親にかこまれて温かい家庭に幸福に溢れて育った小生が学生時代から愛し続けて来た飛行機で勇躍征途にのぼる、実に恵まれ

          海軍大尉 須賀 芳宗

          町人への情け深い計らい

          老中の戸田忠昌が、御用部屋で執務をしていた時のお話です。 「大変です! 車力が制札を!」 忠昌の用人が息せき切って御用部屋に飛び込んで来ました。 聞くと、庭師に命じられて大石を運んでいた車力(運送業者)が、大手前で誤って石を車から落として制札を根元からボキッと折ってしまった、というのです。 その車力は、真面目一方でこれまで事故一つ起こしたことがなかったから、よりによってという感じでした。 制札といえば幕府からのお達しを、家臣たちに伝える厳粛な命令書です。 その制札を折っ

          町人への情け深い計らい

          料理番に罪は無し

          老中の酒井忠世は、徳川創業の功臣です。 その忠世が、江戸城から下城しようとした時のことです。 下城する場合、御台所口の前を通るのですが、そこでバッタリと料理番の下役たちと顔を合わせました。 下役たちは、相手が老中だから慌てて平伏しましたが、その拍子に袖口から 何かが飛びだし、それが廊下に落ちました。 見れば魚の切り身です。 下役は顔を真っ赤にして、慌ててそれを後ろに引っ込めましたが、忠世は素知らぬ顔をして通り過ぎました。 それを見て供侍が口を尖らせて言いました。 「誠に

          料理番に罪は無し