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落語好きの漱石だから、文章が読みやすい、ということを知った

昨年、かなり本を大人買いしました。
場所取るのと
1冊に対して
表面しか読んでいない感じがして
今年はまだ1冊も買っていません。


今読んでいるのは
昨年購入し
一度読んだこちらの本

やはり細かい内容、言葉を
覚えていませんでした。

再度読むと
やっぱり私は
松浦さんの文章は好きだなぁと思いました。
言い回しも好きなものが多いので
また今度まとめます。


この本の中に
夏目漱石は落語好き
とありました。

落語の影響を受け
漱石の文章は口語体
落語のような語り口
になっているそうです。

落語好きだったんだぁ。
知らなかった。


三代目 柳家小さん

漱石が好きだったのは
三代目 柳家小さん





上方落語ばかりだ。
(私は「千早振る」好きです)
さまざまな上方落語を
江戸落語に移植したそうです。


三四郎

夏目漱石の「三四郎」
寄席に行って
柳家小さんについての記述があります。
(知らなかった!三四郎、読んだはずだけど……)

次に本場の寄席へ連れて行ってやると言って、また細い横町へはいって、木原店という寄席を上がった。ここで小さんという落語家を聞いた。十時過ぎ通りへ出た与次郎は、また

「どうだ」と聞いた。

 三四郎は物足りたとは答えなかった。しかしまんざらもの足りない心持ちもしなかった。すると与次郎は大いに小さん論を始めた。

 小さんは天才である。あんな芸術家はめったに出るものじゃない。いつでも聞けると思うから安っぽい感じがして、はなはだ気の毒だ。じつは彼と時を同じゅうして生きている我々はたいへんなしあわせである。今から少しまえに生まれても小さんは聞けない。少しおくれても同様だ。――円遊もうまい。しかし小さんとは趣が違っている。円遊のふんした太鼓持は、太鼓持になった円遊だからおもしろいので、小さんのやる太鼓持は、小さんを離れた太鼓持だからおもしろい。円遊の演ずる人物から円遊を隠せば、人物がまるで消滅してしまう。小さんの演ずる人物から、いくら小さんを隠したって、人物は活発溌地に躍動するばかりだ。そこがえらい。

 与次郎はこんなことを言って、また

「どうだ」と聞いた。実をいうと三四郎には小さんの味わいがよくわからなかった。そのうえ円遊なるものはいまだかつて聞いたことがない。したがって与次郎の説の当否は判定しにくい。しかしその比較のほとんど文学的といいうるほどに要領を得たには感服した。

夏目漱石「三四郎」 青空文庫

この「木原店」
現在 東京日本橋 「コレド日本橋」の場所

「漱石名作の舞台」の碑
があるようです。


落語からの口語体

明治後半まで文章は文語体が使われていました。
言文一致運動がおこり
徐々に文章に口語体が使われるようになったそうです。

夏目漱石の文章は
とても読みやすいな
と、高校生の時思いました。
(国語の時間に「こころ」を半年ぐらいかけてやりました)

落語の影響が大きいとのこと。


漱石が通っていた寄席

漱石が通っていたのは
現在の神楽坂にあった
肴町 和良店

落語か。落語はすきで、よく牛込の肴町さの和良店へ聞きにでかけたもんだ。僕はどちらかといえば子供の時分には講釈がすきで、東京中の講釈の寄席はたいてい聞きに回った。なにぶん兄らがそろって遊び好きだから、自然と僕も落語や講釈なんぞが好きになってしまったのだ。

夏目漱石「僕の昔」青空文庫


当時は沢山の講釈場や寄席小屋があったそう。
さぞやにぎやかだったのだろうな。


夏目漱石の本を
読み返したくなりました。
文体に注目すると
落語を感じられそうです。

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