防災ブラチャリリ4 〜気仙沼津波石碑と復興途中の街めぐり〜
気象予報士の加藤史葉@WeatherDataScienceです。
防災に関する設備や記念碑などをめぐり、防災に関する知識・興味を広げていく『防災ブラチャリリ』シリーズをnoteで公開しています。
前回のブラチャリリでは、来春スタートのNHK朝ドラ『おかえりモネ』の舞台に決まった気仙大島にある津波石碑をめぐりました。
後半の今回は、気仙沼市内中心部をめぐります。
それでは、防災ブラチャリリ 〜気仙沼津波石碑と復興途中の街めぐり〜 行ってみましょう!
【津波石碑1】@鶴ヶ浦漁港そばの御嶽神社入り口
気仙沼市三ノ浜にある御嶽神社の鳥居の隣にありました。
“昭和八年三月三日 大震嘯災記念”
“大地震どんと沖鳴りそら津浪”
と刻まれています。
鳥居の脇には、過去この地区を襲った津波災害とその到達水位を示す看板がありました。
改めて、この土地は津波の記録と切り離せない歴史があり、それを後世に伝えていくことも、この土地の歴史の一部なんだな、としみじみ思ったり…
石碑の裏面に回ると、復旧工事が進められている鶴ヶ浦漁港の景色がありました。
裏面は漢文で “大震嘯災概況” について記されています。
内容については、国交省の資料や、こちらのブログで詳しく解説されています。
【津波石碑2】@気仙沼市小々汐
1894(明治27)年に漁の豊漁と海上安全を祈願して建立された “金比羅大權現” と “金花山” と彫られている石碑と並んで、津波石碑がありました。
こちらも “昭和八年三月三日 大震嘯災記念” “大地震どんと沖鳴りそら津浪” と刻まれていました。
裏面に刻まれてる内容は、御嶽神社入り口にあった石碑(津波石碑1)と同じようです。
【津波石碑3】@気仙沼市大浦
水産加工会社と道路を挟んだ向かい側の雑木林の中に津波石碑がありました。
“大地震それ来るぞ大津浪” と刻まれていました。
津波石碑1〜3の所在地の詳しい地図を載せておきます。
【津波石碑4】@気仙沼市浪板
【津波石碑5】@気仙沼市東みなと町
大きな供養碑の隣に津波石碑がありました。
この供養碑のことを調べましたが、ネット検索ではヒントも何も得ることができませんでした。今度またゆっくり調べてみよう…
【津波石碑6】@気仙沼市錦町
気仙沼へ出発する前の津波石碑リサーチでヒットしなかったため、まったく存在を知らなかったこの鹿折津波記憶石。
2011年の東日本大震災による津波被害を後世に伝える石碑はこれまで見たことがなく、ここを偶然通りかかって偶然見つけたことに、ご縁を感じました。
記憶石を中心に、被災者のメッセージが書かれた石版がトライスター型(Y字型)に配置されたデザイン。
津波のおそろしさと、とにかく逃げて命を守って欲しい、ということを後世に伝えたいという強い思いが、石板3枚の裏表びっしりと刻まれていました。
“2011.3.11 津波がこの町をおそったあの日を忘れないで”
“津波はおそろしい、忘れるな がんばれ東北!がんばれ未来の人!”
“津波がきたら安波山へ!この石碑も流される日がきっと来る…!”
“地震、津波=高台に逃げる”
“自分の命を最優先に考えよう!”
“あの日の津波のおそろしさを今後、防災に役立て命の大切さを決して忘れずに後世へ そのまた後世へつないでほしい”
この津波記憶石は、全国の優良石材店が加盟する組織による『全優石 津波記憶石プロジェクト』から「津波の事実と教訓を後世に残す為に建立される石碑」として寄贈されたものだそうです。
津波石碑4〜6の所在地の詳しい地図を載せておきます。
津波石碑に託した先人の思いの受け取り方
命を最優先に守るため地震が来たらとにかく逃げろ!という条件反射的な行動をとることの大切さを、気仙沼の全ての石碑は説いてるように思います。
『人が死なない防災 (集英社新書)』という本からも津波防災に関するたくさんの学びを得ました。
その中でいくつか印象的だった内容を挙げます。
◉「その日、その時」だけちゃんと対応する、ちゃんと逃げるということをやることが、未来永劫、海の恵みを受け続け、三陸の海の街に住む心得。
◉家族がお互い信頼し合うことで「津波てんでんこが可能な家族たれ」
普段は海の恵を受ける日常を過ごす。
いつかその日が来たら、家族誰もが逃げていることを信じ切って、自身もとにかく逃げることで「津波てんでんこ」が成立する。
という内容です。
地震=逃げる。
これを家族みんなで徹底して認識し合うことが、先人が石碑に残したメッセージを的確に受け取ることなのだろうと思いました。
復興途中の街めぐり
今回の気仙沼旅行の機会に、気仙沼市語り部ガイドを申込みました。
お世話になったのは、震災復興語り部の鈴木晴夫さん。
復興開発真っ只中の気仙沼の街を3人で歩きながら、震災後に改められた建築基準(住宅を建てることができるエリアを定義、津波による浸水が想定されるエリアの建物の居住室•宿泊室は2階以上に設計すること、津波発生時に屋外にいる人がすぐ近くの建物へ垂直避難できるよう、建物の外から上階へ行ける非常階段と屋上を開放しておく、etc.)について教わったりしました。
また、鈴木さんご自身の被災ご体験も伺うことができました。
地震後、車で避難しようとしたところ、途中渋滞でまったく進まない車中、心に強く感じる嫌な予感に従い、途中にある友人宅に車を置き、徒歩で高台へ向かったそうです。
その後すぐ津波が来て、さっきまで自身が渋滞に捕まっていた道に連なっている車が次々と流されていくのを高台から目撃し、直感に従い車を置いて逃げて助かった自身の判断と、防災教育の重要さについて教えてくだいました。
ところで、気仙沼といえば、世界三大漁場を間近に望む漁業の街。
気仙沼漁港には見たことのない大きな漁船がたくさん並んでました。
船からトゲトゲがたくさん生えているようなこの漁船は、サンマ漁船。
トゲトゲのように見えるのはLED集魚灯で、光に集まるサンマの習性を利用しながら効率良く漁をするためなのだと、鈴木さんに教わりました。
船首から桟橋のようなもの突き出しているこの漁船は、メカジキ漁船。
この桟橋のような “突き台” からモリでメカジキをひと突きする漁法に最適化された漁船なのだそう。
おまけ:気仙沼の街めぐり動画
実は、気仙沼へは、2012年4月に当時の仕事の出張で一度訪れたことがあり、今回のブラチャリリで2回目の訪問となりました。
前回は、震災からまだ1年ちょっとしか経ってない気仙沼の街並みをバスから撮影していたのですが、それから8年が経過した今回、復興が進んできた今の街並みを、当時バスが進んだ同じ道のりを辿りながら撮影し、それらを比較できる動画を作ってみました。
2012年の気仙沼は、まだ津波の傷も癒えない、被害が露わになって心痛む光景が広がる街でした。
でも当時お仕事でご一緒した赤岩港水産加工団地の皆さんは、気仙沼を心から愛し、またこの地で自身の事業を立て直すことで、復興に貢献したいという強い思いを語っていらっしゃいました。
今回訪れた気仙沼は、復興が着々と進んでおり、見上げると復興のシンボルのような、とてつもなく高く大きな橋『気仙沼湾横断橋』の工事が進められていました。
そして、来春朝ドラの舞台に決定したことで、街の人が楽しみにしながら復興の励みに感じていらっしゃることが伝わってきました。
8年ぶりに訪れた気仙沼、大島も含め、とっても美しい海の街。
そして、遠い子孫を思うメッセージが刻まれた津波石碑というタイムカプセルがある気仙沼。
全てひっくるめて、心惹きつけられっぱなしの気仙沼ブラチャリリでした。