寺沢薫氏『卑弥呼とヤマト王権』への疑問:纒向は大陸や九州との交流の痕跡が希薄
寺沢薫さん(纒向学研究センター)の最新刊『卑弥呼とヤマト王権』(中央公論新社、2023年)にはたくさんの疑問があるのですが、5点に絞って指摘したいと思います。
寺沢さんの説は、一般的な邪馬台国大和説とは異質です。僕のnoteで度々掲載している一覧表を修正して、改めて掲載します(図表1)。
図表1
以下では、長くなりますが、寺沢さんの記述を引用しながら、疑問点を検討したいと思います。出典を明記していないものはすべて本書からの引用です。
1.纒向には大陸との交流の痕跡が希薄
搬入土器と前方後円墳から誇大妄想
寺沢さんは、纒向遺跡は3世紀初めまでの倭国乱を経て、イト・キビ・イヅモなどの首長層による政治的合意で成立した王都だとしています。
以前は政治的「談合」という言葉を使っていました。言葉のイメージが悪いからか、本書をはじめ最近では「合議」「会同」「会盟」といった言葉を使っています。もっとわかりやすい言葉で「合意」でいいのではないかと思います。
纒向遺跡が各地の首長による政治的合意で成立したという根拠は、纒向遺跡では各地からの搬入土器の比率が高いこと、前方後円墳には各地の祭祀の要素が集約されていることが、主な根拠になっていると思います。
新生倭国に集ったメンバーの政治的合意については、以下のように述べます。
前方後円墳の属性がどこから持ち込まれたかについては、例えば以下のような系譜を挙げています。
墳形(円丘+方丘):キビ(瀬戸内)
墳丘の巨大化:イヅモ・タニワ(近畿北部)、キビ
葺石・貼石・積石:イズモ・タニワ、キビ
鏡・玉・武器:北部九州
鉄器多量副葬:北部九州
特殊器台・壺:キビ
周濠:近畿
前方後円墳の系譜や搬入土器の多さは事実です(九州北部を除く)。しかし、新生倭国で交わされた合意とか、纒向に各地域の代表が常駐したとか、これらは寺沢さんの想像です。もはや、誇大妄想纒向論といってもいいと思います。僕は後述するとおり、纒向が卑弥呼の都になったとは考えていません。
政治的合意の黒幕が公孫氏ならば
さらに、寺沢さんは、政治的合意の背後には、遼東半島を支配していた公孫氏[こうそんし]による外圧があった可能性も指摘しています。
卑弥呼共立を倭国内だけではなく、東アジア情勢と結びつけた壮大な説となっています。公孫氏の関与の根拠は、陳寿[ちんじゅ]の記した三国志の中の魏志韓伝の記述です。
「倭韓遂属帯方」は「倭との外交の所管が楽浪郡から帯方郡に替わった」という解釈をする研究者もいます。「内属」は寺沢さんがどういう意味で使っているのかわかりませんが、単に所属とか所管という意味ではなく、服属・従属という意味で使っているようです。
公孫氏が帯方郡を置いたのは204年です。卑弥呼は239件に帯方郡を経由し、魏に使いを送りますが、寺沢さんは3世紀の早い時期には公孫氏と外交関係があったとしているわけです。寺沢さんの説のとおりであれば、卑弥呼の都だった纒向遺跡には、卑弥呼を共立した九州北部や公孫氏との交流の痕跡が残っているはずです。
楽浪系土器の分布は九州北部に集中
ところが、坂靖[ばん・やすし]さん(元・橿原考古学研究所)、関川尚功[ひさよし]さん(元・橿原考古学研究所)は、以下のように指摘します。
図表2は日本列島における楽浪系土器の分布です(白井克也「弥生時代の交易」(第49回埋蔵文化財研究集会発表要旨集、2001年))。2001年の資料のためか、山持遺跡が含まれていませんが、楽浪系土器の分布は九州北部に集中していることがわかります。
図表2
※「楽浪系土器の分布」の図について
白井さんの発言要旨はネットで見られますが、図が掲載されていません。発言要旨集は国会図書館にもなく、明治大学博物館図書室で閲覧しました。大学図書館は一般人は公共の図書館の紹介状が必要なことが多く手間がかかるのですが、明治大学博物館図書室は一般人も自由に閲覧でき、コピーも1枚10円(トーハク資料館は30円)で感謝でした。
※「楽浪系土器は皆無」について
僕は今までは坂さんの指摘を受け、「纒向には楽浪系土器は皆無」としていましたが、纒向の発掘・調査に携わった石野博信さん(兵庫県立考古博物館)は「最初に朝鮮半島系土器が検出されたのは1996年で、橋本輝彦氏(纒向学研究センター)によると、楽浪系、伽耶系を含めて4~5片認められる」としています(「邪馬台国時代、吉備と出雲連合は大和に新王権を樹立したか」(『季刊邪馬台国』第137号(梓書院、2019年)所収)。
また、纒向学研究センターのHPでは、「韓式系土器には格子目のタタキを持つものとミガキによって光沢を持つものの二種がありますが、ミガキを施す個体は楽浪系の土器ではないかと考えられています」と説明されています(この説明は以前からあったでしょうか)。
わずかながらも、楽浪系と考えられる土器が出土していることは、発掘調査報告書には記載されているのでしょうか。
いずれにしても、「皆無」という表現は改めますが、纒向には楽浪系土器がほとんどないことは変わりません。
寺沢さんは「大阪市加美[かみ]、大阪府八尾市久宝寺[きゅうほうじ]遺跡などに楽浪系・三韓系土器がはじめてもたらされていることは重要である」(『弥生国家論』(敬文舎、2021年))と述べています。しかし、大阪府文化財センターにも問い合わせたものの、加美遺跡・久宝寺遺跡とも楽浪系土器が出土しているという事実は確認できませんでした。
寺沢さんは纒向遺跡の搬入土器に「わずかだが北部九州」があるともしていますが、これはどの試料を指しているのでしょうか。
僕は、纒向遺跡の九州系土器は、鹿児島と考えられる破片が1つ認められただけだと認識していました(石野博信『大和・纒向遺跡』(学生社、2005年))。一方、石野さんは「<1973年に九州を回った際>纒向遺跡の九州系と考えた大壺片を携行しておきながら、大分県安国寺遺跡の南九州系由来と考えられる大壺には気付いていなかった」とも述べています(「邪馬台国時代、吉備と出雲連合は大和に新王権を樹立したか」(『季刊邪馬台国』第137号(梓書院、2019年)所収)。大分県で出土した土器の系統なのかもしれません。
ここで重要なのは、寺沢さんは楽浪系土器が大阪までもたらされており、九州系土器が纒向にもあると述べていながら、どちらも出典を示していないことです。重要な論点なのですから、最低限、発掘調査報告書などの出典を示すべきですが、寺沢さんも本書の編集者も見落としています。本書が不適切であることを示す一例です。
寺沢さんは本書のプロローグで「この本では、自説のみをひたすら主張するのではなく、できるだけ学界での対論も明記して対峙させることで、読者にその違いや問題点を正しく伝えることに意を払った」と述べています。
にもかかわらず、「纒向遺跡には,海外交渉を示す資料が極めて稀薄」だという坂さんや関川さんの指摘に全く答えていないのは残念です。
土器の状況からは、少なくとも、九州北部の勢力が纒向に駐在員事務所を構えたことはなさそうです。
公孫氏が倭国に外圧をかけた可能性はあると思います。そうだとしたら、当然、その成果を見届けるために高官(楽浪人?)が倭国を訪れ、滞在もしているでしょう。卑弥呼は239年以降は帯方郡を通して、魏に使いを送っています。しかし、纒向にはその気配が感じられません。
僕は図表2の楽浪系土器の分布を見たら、纒向遺跡が卑弥呼の都ではありえないことは、もうそれだけで明らかだと思います。
2.総距離「1万2000里」を説明していない
寺沢さんは邪馬台国や卑弥呼の問題を解き明かすためには、以下のような方法論が適切だと述べます。
簡単にいうと、まずは考古学によってできるかぎり精緻に歴史像を組み立て、それが文献学でも許容できるかどうかを検討するということだと思います。
僕はこの寺沢さんの方法論に賛成です。魏志倭人伝は西晋王朝に忖度して、倭国を「遠い南の大国」に脚色し、間違いだらけになりました。いくら魏志倭人伝を読んでも、邪馬台国問題は解決できないと思っています。そのことは2024/3/8のnote記事に書きました。
寺沢さんの方法論には賛成なのですが、本書で寺沢さんが展開する邪馬台国大和説には賛成できません。
その理由の1つは、「1.纒向には大陸との交流の痕跡が希薄」で説明したとおり、纒向は考古学的に大陸や九州との交流の痕跡が希薄で、精緻に歴史像を組み立てているとはいえないことです。
もう1つは、文献学的にも、帯方郡から女王国までの総距離1万2000里(伊都国から1500里)との整合性を検証していないことです。残り1500里なのですから、普通に考えれば、女王国は九州から出ることはありません。
そもそも邪馬台国大和説で1万2000里(残り1500里)をきちんと論じている人を、僕はほとんど知りません。政治評論家で歴史家でもある八幡和郎さんも、Agoraに「邪馬台国畿内説の人々が無視する都合の悪い話」という記事を投稿し、一般人の感覚を代弁してくれています。
山尾幸久さん(元・立命館大学)だけはこの問題を正面から取り上げています(『魏志倭人伝新版』、講談社現代新書、1986年)。魏志倭人伝の里数は、伊都国までは誇大だが、伊都国からの1500里は魏の時代の1里435mを使っているというものです。約600kmですから、九州北部から纒向までの距離とだいたい合っています。ただし、僕は九州北部から近畿まで瀬戸内海を移動したとしても、3世紀に水行距離を測る方法はなかったと考えていて、山尾さんの説には賛成できません。
纒向が卑弥呼の都だという他の研究者は、行程に具体性がないにもかかわらず、水行陸行の記述を優先すべきだとか、1万2000里は当てにならない数字だから無視すべきだと、お茶を濁すのみです。
寺沢さんは1万2000里(残り1500里)を説明していません。せっかく考古学で組み立て文献学で検証するという方法論を示しながら、言行不一致になっています。
3.纒向遺跡の復元図は捏造
大型建物は箸墓の年代には廃絶:口絵の注釈は不十分
僕は2023/4/14、6/10のnote記事で「纒向遺跡の復元図は間違い」であることを指摘しました(どちらの記事も現在は非公開)。箸墓古墳の年代には、大型建物は廃絶しています。箸墓古墳と大型建物が一緒に描かれている復元図は間違いです(図表3)。
図表3
当初は「大型建物」と言われていた遺構を、寺沢さんは「大王宮」と呼んでいます。
本書では、復元図は以下のように使われています。
復元図が、帯に使われている
復元図は口絵にも掲載されていて、下部に「大王宮の存在と箸墓古墳の造営は時間的には先後の関係にあるが、ここでは同一画面に再現」と注釈が入った(図表4)
口絵の復元図では、大型建物の配置が修正された(建物敷地面積が狭くなった?)
図表4
本来はこの復元図はもう使用すべきではありません。間違いだからです。使用するのであれば、大型建物はすべて削除すべきです。
口絵に注釈を入れればいいというものでもありません。虚偽誇大表示を禁止する景品表示法では、やむをえず打ち消し表示を入れる場合は、隣接する個所に明確に表示しなければならないとされています。打ち消し表示が離れていたり、字が小さいと、読者(消費者)が気づかないことが多いからです。口絵の注釈は景品表示法の基準に照らせば不適切です。
注釈も「先後の関係」では、読者は意味が理解できないと思います。はっきり「箸墓古墳の年代には大型建物は廃絶しており存在しなかった」と記載すべきではないでしょうか。
※寺沢さんは本書を2020年10月に書き上げたそうなので、僕の指摘を受けて注釈を入れたわけではありません。ただし、2024/3/17のNスペ「邪馬台国の謎に迫る」では、注釈もなく、復元図が使われていました。奈良県桜井市の資料(HP)でも、注釈もなく、以前の復元図が使われています。すぐに削除すべきです。
4.鉄器量は権力に直結する
近畿優越論を排すのは賛成
寺沢さんのユニークなところは、邪馬台国九州説と戦っているだけではなく、一般的な大和説(近畿優越論)とも戦っていることです。
近畿の考古学は何かにつけ「近畿は古い、近畿は大きい、近畿は中心だった」と言う傾向があります。
2022年に発行された論文集『纒向学の最前線』の中には、纒向犬が大きいという論文までありました。僕は纒向犬が大きいことの根拠はないことを2022/10/28のnote記事にしました。発行者の纒向学研究センターはしっかり査読したのでしょうか。
纒向犬は「体高」では中大型だが、「体高」は他の古代犬と比較できず、根拠にならない
纒向犬は「最大頭蓋長」「下顎骨長」では中型で、弥生犬と同じである
縄文犬にも中大型に匹敵するものがあり、時代とともに大型化したとは断定できない
朝鮮半島南部の勒島[ヌクト]犬は弥生時代から渡来していた可能性が高い
大陸と日本の古代犬のDNA調査をしなければ、大型化の原因が渡来だとは断定できない
寺沢さんは近畿優越論を排します。その点では、僕は寺沢さんの指摘に賛成です。
その1つとして、一般的な大和説は「2世紀末までの倭国乱によって、近畿が九州に取って代わって、鉄器の覇権を握った」というように主張していますが、寺沢さんは鉄器は3世紀半ばまで、九州が近畿に比べて圧倒的に多いことを指摘します(図表5)。
図表5
鉄器の量というと、安本美典さん(元産能大学、邪馬台国の会主宰)が同じように鉄器の都道府県別出土量のグラフを示しています。安本さんは弥生時代を通した出土量を比較しているのに対し、寺沢さんは「弥生中期まで」「弥生後期」「弥生終末期(寺沢さんは古墳時代初めと呼ぶ)」と年代を分けて集計しています。寺沢さんのグラフは卑弥呼の時代(3世紀前半)の出土量が明確で、より説得力があります。
卑弥呼が大和から西日本支配は無理
ただし、寺沢さんの以下の指摘は誤解を招きます。
ここで寺沢さんがいう生産力・経済力とは、鉄器や米による生産力・経済力を指します。
確かに、米は弥生時代にはまだ広く食べられていたわけではないのは、その通りです。僕も2023/3/8にnote記事で紹介しました。
弥生時代に水田稲作が普及したというのは幻想であり、耕作と休耕を繰り返していた可能性がある
弥生人の人骨からコラーゲンの由来を調べても、米の依存度は高くなく、水田稲作が一気に広まったわけではないことを裏づける
鉄器は違います。近畿では普及していなかったのは事実ですが、九州北部ではある程度行き渡っていたと思います。
鉄器は軍事力としても、耕地開拓や集落建設のための土木力としても、政治権力に直結したことは明らかだと思います。「政治権力の形成には直結しない」と一般化するのは疑問で、「近畿では」と限定すべきでしょう。
誤 鉄器による生産力や経済力などの要素は、いまだ政治権力の形成には直結しない
正 近畿では、鉄器による生産力や経済力などの要素は、3世紀前半まではまだ政治権力の形成には直結していない
寺沢さんは卑弥呼の政権の支配体制は整備されていたと述べます。
鉄器による政治権力に格差がありながら、卑弥呼の都が大和にあって、西日本全体を支配していたとは、僕には思えません。
5.箸墓の築造完了は布留0式新相ではないか
寺沢さんは「(箸墓古墳は)布留0式古相期のなかで築造が終わっていた」としています。
箸墓古墳の築造前の土器が布留0式期古相段階であることはともかく、築造後の土器も布留0式古相段階とすることは疑問です。「(土器に)やや新しい要素が見られる」のであれば、築造後の土器は布留0式新相段階とすべきではないでしょうか。
歴博が箸墓古墳の築造直後の年代を240~260年と発表した2011年論文「古墳出現期の炭素14年代測定」でも、箸墓古墳の築造は4段階に分けて以下のように記載されています。
第 1 段階:周濠部分掘り下げ、排土は墳丘部へ運ぶ
第 2 段階:盛土を行い、外堤を盛り上げる。葺石を施す。古墳完成。NRSK–C20(試料番号)
第 3 段階:周濠下層に木製の鍬や用途不明品の投棄。NRSK–C21、C22、7
第 4 段階:周濠上層が堆積。周濠の埋没。布留1式期。NRSK–C23、C24、C25
歴博は第3段階を「箸墓古墳築造後」としています。この段階の土器は布留0式新相段階です。
ちなみに、図表6の赤丸が布留0式古相段階の土器の出土位置、青丸が新相段階の小枝の出土位置になると思います(どちらも僕の推定です)。古相段階が外濠、新相段階が内濠であることがわかります。
図表6
追記:僕は邪馬台国九州説ではありません
なお、僕はこんなふうに寺沢さんの著作を批判しますが、邪馬台国九州説ではありません。また、以前不勉強だったころ、僕もAgoraに投稿したことがあり、邪馬台国九州・近畿並存説をうたいましたが、現在は考えが変わっています。
僕の説は(結論はできているのですが)まだしっかり整理できておらず未発表です。できるだけ早く記事にしたいと思っています。僕が邪馬台国九州説だとかん違いする人がいるみたいですので、ここにも追記しておきます。
(最終更新2024/12/13)
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