画文帯神獣鏡(下):倭の五王が受け取った同型鏡群
千葉県立中央博のグッドジョブ
7/6に千葉県立中央博物館で辻田淳一郎さん(九州大学)の講演がありました。千葉で辻田さんの講演が聴けるとは思っていなかったので感激しました。
同型鏡とは?
講演のタイトルは「同型鏡と5・6世紀の東アジア」でした。
同型鏡というのは、元になる原鏡に粘土を押し当てて鋳型をつくり製作された複製鏡です。押し当てる時に足で踏んだと考えられ、「踏み返し鏡」とも呼ばれます。踏み返しを繰り返して、第3世代、第4世代…の複製鏡がつくられることもあります。
5~6世紀(古墳中期・後期)に集中して倭国に流入・流通したのが、画文帯神獣鏡、画文帯仏獣鏡などの同型鏡群です。画文帯神獣鏡は前回2024/6/24のnote記事で紹介したとおり、3~4世紀(弥生終末期~古墳前期)にも古墳に90面以上が副葬されました。
時代を空けて、また倭国に流入・流通したというのがおもしろいです。
今回は辻田さんの著作や講演をもとに、5~6世紀(古墳中期・後期)に流入・流通した画文帯神獣鏡について紹介したいと思います。
約140面が出土:埼玉稲荷山古墳・江田船山古墳・武寧王陵でも
5~6世紀の同型鏡群は約30種類、約140面が出土しています。同じデザインの鏡が多く、最多では28面もの同型鏡をもつデザインもあります。面径19.1㎝以上の大型鏡が7割を占めます。
9割以上が日本出土で九州・近畿・関東に集中します。ワカタケル大王の鉄剣で有名な埼玉稲荷山古墳や熊本県江田船山古墳でも出土しています。
朝鮮半島では百済の武寧王[ムリョンワン]陵などで7面が出土しています。武寧王陵は棺材が日本産コウヤマキであることが知られていますが、同型鏡群も倭国から持ち込まれた可能性があります。北京の故宮博物院など、海外の博物館で所蔵されている同型鏡もあります。
辻田さんによると、同型鏡群は銅鏡の研究の中ではマイナーな分野だそうで、今回のような講演会が企画されるのは珍しいとのこと。辻田さんは嬉しくて資料をつくりすぎてしまったようで、1時間10分という講演時間があっという間でした。質疑応答がなかったのは残念でした。
台古墳群鏡は3年越しの恋
同型鏡群の一覧は『鏡の古代史』に掲載されています。千葉では以下のように3面が出土しています(アルファベットは辻田さんの付番による)。いずれも重要な特徴をもった鏡です。
木更津市 鶴巻塚古墳 画文帯仏獣鏡A
木更津市 祇園大塚山古墳 画文帯仏獣鏡B
大多喜町 台古墳群 画文帯環状乳神獣鏡B
大多喜町[おおたきまち]の台古墳群[だい・こふんぐん]から出土した画文帯神獣鏡は、現在開催されている「発掘された日本列島2024」の地域展で本邦初公開されています(2024/7/15まで)。
僕が初めて画文帯神獣鏡に出会ったのは、2021年5月のことです。埼玉稲荷山古墳鏡でした(さきたま史跡の博物館)。
埼玉稲荷山古墳鏡と台古墳群鏡はデザインが同じ同型鏡です。僕は台古墳群鏡も観たくて、2021年5月に千葉県教育庁に問い合わせたのですが、個人蔵ということもあり公開されていないとの回答。台古墳群の現地も訪ねましたが、古墳群の案内板もなくなっており、位置はわかりませんでした。地元の方たちもそのような鏡が出たことをご存じないようでした(今回の展示によると、私有地なので訪問はできません)。
千葉県が2021年にその台古墳群鏡の寄贈を受け、今回の地域展開催に至ったとのこと。寄贈を受けたのは、僕が問い合わせた直後のことでしょうか。3年越しの恋が実りました。
※トップ画像:画文帯神獣鏡(台古墳群鏡と埼玉稲荷山古墳鏡が同型鏡)
左:江田船山古墳鏡(面径14.8㎝・トーハク展示)
中:台古墳群鏡(15.3㎝・地域展展示)
右:埼玉稲荷山古墳鏡(15.3㎝・レプリカ・地域展展示)(さきたま史跡の博物館では真上からの撮影禁止)
同型鏡群は国産?中国産?
トーハクでは「中国鏡」と展示
僕は当初は同型鏡群はすべて国産だと思っていました。ワカタケル大王が踏み返しを命じて地方の豪族に配布したのではないかと。国産だと説明している論文もあります。
納得できる説だと思っていました。
ところが、ビックリしたのは、トーハクでは江田船山古墳出土の同型鏡群が「中国鏡」として展示されていることです。トーハクに問合せたところ、最近の研究では中国鏡とされているとのことで、辻田さんの著作を紹介されました。
辻田さんは同型鏡群を中国産としています。その根拠は以下のとおりです。
日本で出土する同型鏡群の中には、踏み返しの原鏡と考えられる鏡がほとんど含まれていない
北京の故宮博物院が所蔵する画文帯仏獣鏡は踏み返しの第2世代と考えられる。故宮博物院鏡は中国産の可能性が高い
中国特有の製作技術が使われている(楕円または円形の紐孔、外区の拡大など)
オヤコ関係の可能性は3例のみ、中国産の原鏡が存在
このうち、日本出土鏡には原鏡候補がほとんど含まれないこと、故宮博物院鏡が原鏡と考えられることは、川西宏幸さん(筑波大学)の研究に基づきます。川西さんは踏み返しに伴う面径の収縮や傷の増加を調べ、踏み返しの新旧の世代差を示しました(『同型鏡とワカタケル』(同成社、2004年))。
その結果、2004年時点で出土していた15種類、104面の同型鏡群のうち、オヤコ関係の可能性があるものを3例、抽出しました。辻田さんの付番では以下のとおりです。
画文帯環状乳神獣鏡C
画文帯同向式神獣鏡B
画文帯仏獣鏡A
このうち、オヤの(可能性のある)鏡も、コの鏡も、日本で出土しているのは「画文帯環状乳神獣鏡C」だけです。
「画文帯環状乳神獣鏡C」は、奈良県藤ノ木古墳鏡がオヤになって、3面の同型鏡がつくられた可能性がありますが、藤ノ木古墳鏡は錆の付着がはなはだしくて傷の有無が確認できず、オヤであるともないとも断定できません。川西さんは「後考(今後の研究)をまちたい」としています。たとえ、オヤコ関係が判明しても、倭国で踏み返されたとは限らず、中国で踏み返され、オヤコそろって倭国に流入・流通した可能性もあります。
「画文帯同向式神獣鏡B」は旧ブリング氏蔵鏡が精緻な仕上がりであり外区拡大前の鏡であることから、オヤの可能性が高いです。旧ブリング氏蔵鏡は出土地が不明であり、「日本出土という伝えはない」(川西宏幸『同型鏡とワカタケル』)とされています。なお、旧ブリング氏蔵鏡は、ドイツ系アメリカ人女性の美術史家、アンネリーゼ・ブリング氏(1900~2004年)の個人コレクションだったという意味だと思います。
「画文帯仏獣鏡A」は、北京故宮博物院鏡や千葉県鶴巻塚古墳鏡などが属します。どちらも鋳上がりがよく、辻田さんは同じ原鏡から踏み返されたキョウダイ関係であり、故宮博物院鏡は第2世代だと特定しています。故宮博物院鏡は清朝王室の遺品の鏡であり(川西宏幸『同型鏡とワカタケル』)、中国産で間違いないと思います。日本産の鏡が中国に持ち込まれることは想定しづらいからです。
こうしてみると、オヤコとも日本で出土している可能性があるのは「画文帯環状乳神獣鏡C」のみとなります。同型鏡群が倭国で踏み返されたならば、もっとたくさんのオヤコ関係が見出されるはずです。この1種類しかないということは、同型鏡群が中国産であることを示していると思います。
古墳前期に大量副葬された三角縁神獣鏡は、鏡も鋳型も中国で出土せず、中国産か国産かが議論になっています。それと異なり、故宮博物院鏡という中国産の原鏡(第2世代)が存在することは、同型鏡群が中国産であることの有力な根拠になります。
系譜と製作地
一方で、辻田さんの指摘する製作技術の「系譜」については、僕は「製作地」とは別物だと思っています。倭製鏡には見られない技術であっても、中国の工人が倭国にやってきて製作した可能性を否定できないからです(魏系の鏡だといわれる三角縁神獣鏡についても同じことがいえます)。
4世紀の古墳中期は、巨大古墳築造のための測量・土木技術、灌漑など農業の技術、金工技術、須恵器の技術、乗馬の習慣など、渡来人によって技術革新がもたらされたことが知られています。鏡の新たな製作技術が渡来したと考えてもおかしくないと思います。
ちなみに、中国特有の技術とされる外区拡大は、千葉県祇園大塚山古墳鏡で見られます。千葉には、台古墳群鏡(埼玉稲荷山古墳鏡と同型鏡)、鶴巻塚古墳鏡(故宮博物院鏡と同型鏡)、祇園大塚山古墳鏡(外区拡大)と、特徴のある鏡がそろっています。
ヤマト王権が倭国内の序列化に利用
粗製濫造品の末端の製品が倭国に
同型鏡は踏み返しの世代を重ねるごとに文様が不鮮明になります。辻田さんは以下のように指摘しています。
辻田さんも講演で「ひどい言い方じゃないかと思われるかもしれませんが」と笑っていました。どうして、粗製濫造品の末端の製品ばかりが流入・流通したのでしょうか。
同型鏡群は倭の五王が南朝宋への遣使で受け取ったと想定されます。倭の五王というと、朝鮮半島南部の主権を主張し、宋から「安東将軍」「安東大将軍」の称号を認められましたが、一貫して百済への主権は認められず、高句麗や百済よりも低い地位に置かれたことが知られています。
同型鏡に関連していうと、特に注目されるのが、438年の珍、451年の済の遣使です。魏志倭人伝と異なり、宋書倭国伝には鏡の授受の記述はありませんが、以下のような記述があります。
※除正[じょせい]:古い地位に代えて新しい地位を認めること
※軍郡[ぐん・ぐん]:将軍と郡の太守[たいしゅ=地方長官]
珍も済も倭国王と認められたことに加え、(実態がどうだったのかはわかりませんが)朝鮮半島南部での主権を一部認められています。
それ以上に注目されるのは、珍は「倭隋ら十三人」の将軍号、済は「二十三人」の軍郡を認められていることです。「倭隋ら十三人」「二十三人」はヤマト王権の臣下や地方の有力豪族だと思われます。珍も済も、自らの倭国王の地位だけでなく、倭国内の序列まで中国に認めてもらっているのです。朝鮮半島南部での主権よりも、実質的な意味が大きかったと思います。
辻田さんは特に451年の済の遣使を重視します。450年前後に南朝宋は北伐に失敗しており、450年に百済が宋に遣使した際には、求めに応じて多くの武具を贈っています。百済を自らの陣営に取り込もうとしたのでしょう。ヤマト王権も百済にならってその機会を利用したのです。
大きいことはいいことだ
僕の想像ですが、古墳中期になってもヤマト王権の政権基盤は脆弱で、不安定なバランスの上に成り立っていたのではないでしょうか。同型鏡群はヤマト王権が南朝宋に求め、思惑どおりに宋から贈られ、認められた序列の証しとして、ヤマト王権から臣下や地方豪族に配布されたのだと思います。
当時の南朝宋は銅鏡製作の文化が衰退しており、倭国の大量の鏡の求めに対して、かろうじて踏み返しを使って応えたのでしょう。そのため、倭国には粗製濫造品の末端の製品ばかりが流入・流通したというわけです(宋の工房は、原鏡のような優品は贈らず、手元に残した)。
当時の倭国では、鏡の文様や銘文の価値を理解する文化が育っていなかったと想像します。文様の精緻さではなく、面径の大きい鏡を選んで複製鏡をつくってもらい、配布することによって、「大きいことはいいことだ」とばかりに、臣下や地方豪族にありがたみを感じさせたのだと思います。
最後は、辻田さんに輪をかけて、身もふたもない言い方になってしまいました。そんな同型鏡群ですが、ヤマト王権の中央集権化に大きな役割を果たしました。
千葉県佐倉市にある歴博に比べて、中央博物館の展示は今ひとつ物足りなかったのですが、台古墳群鏡のおかげで目玉ができたと思います。今後、中央博物館が同型鏡群の情報発信源になることを願ってやみません。
まとめ:時代によって性格を変えた画文帯神獣鏡
画文帯神獣鏡は時代によって性格を変えながら、流入・流通したところがおもしろいです。それだけ倭国で人気があった鏡なのだと思います。noteの(上)で弥生終末期~古墳前期、(下)で古墳中期・後期の画文帯神獣鏡について紹介しました。
弥生終末期:九州が起点となり少数が流入・流通(ホケノ山、萩原1号墓等)
古墳前期:ヤマト王権が入手し、近畿を中心に配布(黒塚、和泉黄金塚、西求女塚等)
古墳中期・後期:倭の五王が南朝宋から同型鏡(複製鏡)を入手し、九州・近畿・関東を中心に配布(埼玉稲荷山、江田船山、台古墳群等)
僕は古代史とともに千葉市昭和の森での野生動物観察も趣味にしているのですが、実は中央博物館には昭和の森で聴こえたミゾゴイ、アオバズク、ホトトギスの雌の鳴き声を、鳥類の研究員の方から6月に教えてもらったばかりでした(YouTubeへのリンク)。博物館が近くて恵まれています。中央博物館には、改めて感謝の気持ちでいっぱいです。
(最終更新2024/8/2)
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