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私とピアノと母と

こんにちは!八月下旬、東京は蒸すように暑く、よく晴れています。

クラシックTVを見て、清塚さんみたいに楽しく弾けたらな〜!!と思い、ふと昔を思い出したので、ピアノをきっかけに、自分がアイデンティティを確立していくまでを振り返ってみます。


振り返ると、長いこと自分の意思をもたない子どもでした。
初孫ということもあり、手厚く育てられたので、常に受け身で、不足することを知らなかった。食事も遊びも友人も、自動的にそこにあるものでした。

母は「つまらない子…」と思っていたそうです。

私とピアノと

私がピアノに出会ったのは、幼稚園のとき。
幼なじみたちとカワイの音楽教室のグループレッスンを受け、3オクターブくらいしかない電子ピアノ(キーボード?)を使ってみんなで合奏するのが好きでした。

合奏好きの片鱗がすでにあったので、のちに小中高大で音楽系の部活に入ったのは、当然の流れだったのかも。


小学生になってから、ピアノ教室に通い始めました。
そこは音大受験をするような人たちが通う強気な先生の教室で、先生は「私のところで習えば音大に入れます」と言っていました。

同時に、「この指ではプロにはなれない」と私は小1にして通達されました。 

私の爪は指よりも出ているため、鍵盤を押すたびにカチカチと鳴り、指先は丸く、鍵盤を押すには面積が少なすぎる形をしています。
正論だけど、そう言われるとやる気は出なかった。

また、一緒に習い始めた幼なじみが負けん気の強い子で、「どこまで進んだ?私ここまで!」と聞いてくるので、私の曲の進みを遅くしたいと願う、邪な子どもだった(彼女が怒るのがいやだった)。

のちに彼女は音大まっしぐらで頑張るのだけど、先生と衝突し辞めてしまったようです。

小1の私といえば、カタカナだらけのクラシックはよく理解できず、当時流行っただんご三兄弟を先生と連弾で弾くのが一番楽しみでした。

ここでも合奏じゃん。ソロ向いてないんだわ私。笑

でも、ピアノの音は好きだったし、両手で何かが弾けるというのは特別なことのように思えました。

ピアノと母と

母は高校生までピアノを習っていて、ショパンをよく弾いてくれた。今は弾けないそうだが、上手な方だと思う。

私が使っている電子ピアノにおもむろに座り、見たことのない動きで弾いてくれる母が好きで、よく弾いてとねだった。
静かな昼間に、ショパンやチャイコフスキーのピアノアルバムが流れていました。


さて、小3になって、東京に転校しました。
ヤマハ音楽教室的なグループ教室に通い始め、運悪くも嫌な先生に当たってしまい、弾けない私の手を叩いたり、明らかにため息をついたり、していた(らしい。先生にも興味がなかったので記憶がない)。

でも私は、その意地悪も意地悪と気づかないくらい世間知らずだった。
弾けない自分が悪いのだと納得していたので、しばらくは母にもまったく言わなかった。

のちにぽろっと母に伝えたところ、すぐに先生が変わった。
それでも私のピアノへの取り組み方は何も変わらなかったし、先生たちの顔も話したことも何も覚えていない。


この問題の本質は、先生ではなかった。
問題は、全く練習せず毎週変わらないクオリティを披露する私にあった。

なぜこんなにやる気がないのに続けていたのか。

それは、与えられてきた私にとって、自分でなにかを選び掴み取ることや、そのために敢えてなにかを捨てるという選択肢は、一切頭になかったからだった。

だから、与えられたものは全て手放せなかった。ピアノもその一つだった。

ピアノを手放したらどうなるのか、その先がわからなくて怖かった。

意思のなさ、こわ、、。

母と私と

さて、ピアノをろくに練習せず、レッスンの日になると行きたくない、と駄々をこねる私を、母は何度も家から追い出しました。

私はマンションの外廊下でレッスンバッグと共に泣きながら(近所迷惑です)、でも頑なに行かなかった。
でも、先述の理由で、頑なにピアノを諦めようとはしなかった。

一方、高校までピアノを続けた母からすると、自分の娘が小3時点でこんなに練習もせず下手なんて、意味不明で理解できなかったのではないでしょうか。笑

仲の良い親子関係だけど、ピアノに関わる母と娘の戦いは、ピアノをとるか・とらないか、母の期待に応えるか・応えないか、という私の中のアイデンティティの戦いでもあった。

母はきっと、自分が楽しくて好きだったことを子どもにもやらせたかったのだと思う。
練習の先に、私が母にねだったショパンが待っていると、伝えたかったのではないでしょうか。

いやー、でも当時はつまんねー練習の先に何があるかなんて想像つかないからねえ。。
子育てって大変だねえ〜、、。

…まさか、小4になってもこんな具合でピアノを続けてたのか、と思うでしょう?

なんと、小4で入った吹奏楽クラブで運命的な出会いがあり、あっさりピアノを辞めるという選択を選ぶことができました。

私とフルートと


自分の意思がなかった子どもが、「フルートが欲しい」とお年玉を集めて自分で買いに行き、「フルートを習いたい」と伝えて素敵な先生に出会い、クラブの朝練も毎日行った。

学校に行くのが楽しみだと思ったのは、初めてだった。

今でも思い出す、戦前からある古い木造校舎の端、3階にある埃っぽい音楽室。
昭和○年と書かれたベタベタのシールが貼ってあるケースに入った灰のように黒いフルート(注:本来は明るい銀色)。

「自分で選ぶこと」の快感に気づいてからは、人が変わった。

「つまらない子」から「授業中に発表し、班長や応援団に立候補するフルートが好きな子」となった。
明らかに、意思を持ち始めた。
家族もほっとしたことでしょう。

転校しなければ、ピアノをいやいや続けて、それなりの学校に行って、意思もなくなんとなく生きていたか、
もしくは、同じように吹奏楽部などで別の楽器と出会い、自分で選びとる面白さに気づいていたかもしれません。

特に小学生くらいは、きっかけや出会いがあればいくらでも変わると、自分自身でつくづく思う。

だから、塾で教えていた時に、自信がなくて手を挙げられない小学生の背中を押してきました。

と、いろいろ振り返りながらも、いざ高校に入ったら、別の楽器もできるしピアノも弾けるという超人がわんさかいたし、清塚さんが楽しそうに弾いているのを見て、踏ん張ってピアノやっておけば良かったと思うのだから、人生は不思議です。

でも、小4の私がフルートを選びピアノを手放したことは、正しい選択だったと思っています。

またピアノをやり直して、せめて1曲弾けるようになりたいな〜
右と左の脳と手が同時に動き、複数の音が響く感覚を思い出してみたい。

追記:
最初のピアノの先生は、厳しくも愛のある先生でした。一時期不登校になったのですが、私の居場所のひとつとして受け入れてくれました。それで余計ピアノを手放せなくなったのかもしれないね〜。この話はまた今度。

ではまた!

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