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「求められる成長」とどう向き合っていくのか

これはただのお気持ち日記です。

社会で求められる価値と自分の中の価値のズレ

ある程度お金のある生活をしたいので仕事をしているわけですが、仕事をするなかでは常に成長を求められますよね。
現在の社会の仕組みでは、存続するためには成長し続けることが必須なのでしょうがないことなのですが。

もちろん自身も仕事の面、デザイナーやプログラマとしてスキルアップしたい、こういうことができるようになりたいという漠然とした気持ちはあるものの、“わかりやすい成長を求められる”ことにたいして一個人としてはどう向き合っていけばいいのか?という思いがずっとあります。

ビジネス及び世の中で一般的に価値があると思われているもののみが「成長」と捉えられ、認められるなかで、どうやって自分にとって価値があると感じているものを追い求めていけるのか。

ハンの指摘としてその他に重要なのは、私達は新自由主義的社会の中で、自らのエネルギーや時間を搾取されている奴隷であるばかりではなく、自らのエネルギーや時間を搾取する主人でもあるという二重構造を持っているという指摘です。

成人発達理論から考える成長疲労社会への処方箋 p62

現代の資本主義は、とにかく自我の欲望や欲求を満たすことによって加速させられている側面があるため、もう一度、個人として何を「究極的関心」にして生きているのかを問うことは重要な実践です。

成人発達理論から考える成長疲労社会への処方箋 p214

あくまで仕事でのアウトプットやスキルアップというものは、自分の外側を包む衣服のようなものであり、自分の関心や軸というのは一般的には普段の生活や趣味と呼ばれるような自分の中に存在している感覚があります。
社会の中で認められる価値をまとって一般社会(ビジネス)に参加してる感じでしょうか。

自分の生き方の軸は自分の中に存在するものなのに、それと分離したなにかをまるで「人間、一個人としての成長(進捗)」として外に見せることを求められる状態はしんどいなと思うことがあるのです。

てか「求められる成長に応えること」の評価が高すぎるような気がしていて、まるでそれがその人自体の価値、アイデンティティのように扱われることに違和感を感じているのかもしれません。
(求められること、に応えるのだから当たり前ではあるのですが)

ズレながら生きていくということ

先日「Perfect Days」という映画を見てきました。

自分にとっての価値を中心に生きている主人公の生き方に美しさを感じ惹かれるのですが、やはり大きな社会との断絶があるわけで。
(個別の人とのつながりは映画でも強調されているが)

自分は一般社会との関わりにも楽しさや意味を見出していて、ここまできっぱりとした生き方はできないなと思っているので、そのバランスをどうやってとるのかを考えるしかない。

「人生から何かを得ようなどと思うな」と作家のジェイ・ジェニファー・マシューズは言う。「何かを取り出して持ち帰れるような外部など、存在しないのだから。自分は今この瞬間に絡めとられていて、その外側には何もない」
今を生きるとは、今ここから逃れられないという事実を、ただ静かに受け入れることなのかもしれない。

限りある時間の使い方 p164

やるべきことはいつだって多すぎるし、これから先もそれはきっと変わらない。その中で心の自由を得るための唯一の道は、「全部できる」という幻想を手放して、一握りの重要なことだけに集中することだ。

限りある時間の使い方 p57

まあ自分から望んで「成長を求められる社会」に立っているのは事実なので、自分の価値観に沿った振る舞いをやめることなく向き合ってやるぞ、という気持ちだけはもって毎日積み重ねているところです。

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