『生かす』の落とし穴。『殺さない』ために心掛ける3つの『不断の努力』

 孟子はいわれた。
「(略)一枚の羽根が持ちあげられないというのは、力をだそうとしないからです。車いっぱいに積んだ薪が見えないというのは、見ようとしないからです。しも人民の生活が安定しないのはおなさけをかけようとなさらぬからです。ですから、王様が王者になられないのは、なろうとなさらぬからであって、できないのではありません」
 王がたずねられた。
「しないのと、できないのとでは、具体的にはどうちがうのだろう」
 孟子はこたえられた。
「たとえて申せば、泰山を小脇にかかえて渤海をとびこえることは、自分にはとてもできないと人にいうのは、これこそ本当にできないのです。目上の人に腰をまげてお辞儀をすることは、自分にはとてもできないと人にいうのは、これはできないではなくて、しないのです。
 (中略)人間の心の中こそ、このはかるということが特に必要なのですが、最もはかりにくい難しいものです。王様も、どうかよくご自分でご自分の心をはかってみてください」
 『孟子』梁恵王章句

●『生かす』ではなく『殺さない』を肝に銘じること
 学生時分のこと。
 私は大学主催の教育シンポジウム(というより、高校教諭を対象にした大学説明会のようなものだった)を見物しに行って、そこで耳にした印象的な言葉がある。
 それは当時の学部長が話の結びに発した「私たちは学生の才能を生かしていきます」という言葉へ、即座に反発した高校教師の発言だった。

「『才能を生かす、才能を生かす』と簡単に言いますが、私は常日頃『いかに生徒の才能を殺さないか』に頭を悩ませ、戦々恐々としているのです」

 実感の籠った切実な言葉だと感じた。よくよく考えれば確かに、『才能を生かす』とは思いあがりも甚だしい言葉と言えるかもしれない。
 しかし一方で筋違いじゃないかとも思った。
 的外れというのではない、大学入学後に目標を見失う人は多いし、指導適性を欠く研究者の下についたことで心身を崩す学生の話も珍しくない(アカデミックハラスメントという言葉も一般に普及するくらいだ)。その性質上仕方がないとは言え、『教育』『研究』という二足の草鞋のツケが学生の不利益になりやすいのは確かだと思う。『才能を生かす』は綺麗事、『優秀な頭より、従順な手足が欲しい』というのが、どの世界にも共通する実情であり、それを了解しておくべきなのだ(私は不覚だったが)。
 『研究』と『教育』を分けて大学教員を評価するシステム(例えば、『研究』を論文の数・質とするならば、『教育』は講義の良さに加えて、専門分野のリテラシーが高いこと・優れた評論があること。西部邁先生の見方を参考にすると、前者は専門人、後者は知識人。専門人の繁栄と知識人の衰退が、意思決定を先延ばしする振る舞いとしての「不活動モラトリアム」の元凶だと彼は言う)を構築できれば良いとは思うが、一朝一夕に、というか金や努力(ましてや善意)で解決するような単純な話ではない。下手な考えはここまでにする。
 そもそも自己の形成、アイデンティティの確立は、大学・大学院はおろか学校教育に期待する(任せっ放し)のではなく、それ以外の努力を注いで然るべきだろう。そこに「子育ての共同体」があれば良いと思うが、現代日本においてその役を担う(押し付けられる)のは親となる。

 さて、【善を勧めない】と標榜した私だが、これより敢えて勧めるべき3つの『親の礼』考えて行こうと思う。子育ての失敗に関心がある方は是非、最後までお付き合い願いたい。


 『親の礼』とは[子供を『殺さない』ため、子供へ如何なることを『辞譲』するか]というものだ。(辞譲:譲ること。四端説にある『礼』の端緒)

 最もシンプルな行動は『才能を生かす』という考えに囚われて、『今、我慢させれば』と子供を過酷な状況へ追い込んでしまう親(親権者)へ警鐘を鳴らすことだが、それは第二義的とせざるを得ない。何故なら、その当人が耳を塞いでいることが多いから。内心では気が付いているが間違いを認めたくないため、前にも後ろにも進めない、そんな人間が少なくないからだ。
 だから、第一義的には警鐘が通りそうな対象、その子自身(もしくは「子育ての共同体」の一員。兄姉は勿論、弟妹も力になることがある)が『与えられた人生設計のミスマッチ』に気が付いたとき、どこがおかしいのか冷静に考えられるよう、また、親との対話策を考えられるよう、一つの切り口を提供できれば良いと思うのだ。

 キーワードは[Re-]、自らを省みながら当たること。
 その境地を言葉にすると、『子へのリスペクト[Respect]』となる。リスペクトの語源は『back to look:振り返って見る』、つまり相手を見るとき、己の姿も同時に見ることだ。
 それは『蛙の子は蛙』を意味するのではない。
・親は自分ができない事をそのまま子供にさせないこと。
・親は自分ができた事をそのまま子供にさせないこと。
 ただ、その子ができる事を見極め、その子の地力を信じて応援すること。そういう姿勢を勧めたい。

 さて、ここからは『親の礼』の前提、私が重視すべきだと考える不断の努力を3つを挙げて行こうと思う。『生かす』にせよ、『殺さない』にせよ、その子の傍にいる者が少なからずその責の一端を(しかし、気負うこと無く)、鑑みるようになれば良い。


●『親の礼』の前提、3つの不断の努力

・リサーチ[Research]
 調査、探求。その子の個性を把握することの大切さは、説明するまでもないと思う。
 ただ、留意すべきことが二点ある。
 第一点、その子との直接対話を通して情報を収集することが最も良いということだ。言い換えるなら『後ろ暗い探り方をしてはいけない』ということ。
 分かりやすい例はプライバシーの侵害、昔のことで言うと日記・携帯、今はスマートフォン(ロックがある。ただ、後述の別の問題が根深い)の盗み見だろう。
 古来より変わらぬ問題だ。
 わが子のことをよく知りたいという欲望は分らないでもないが、『必要悪』であると自己弁護して、罪悪感無しに行うようになってしまうとかなり拙い。露見したとき、どんな行動を取るだろうか?相手は子供だ、多くの人は逆ギレ・自己正当化でその場を逃れようとしやしないか?
 (分かっているけど、つい……)それは悪手中の悪手だ。そんな人間にどんな相談事を打ち明けられるというのか?本当にその子を思ってその子を知りたいなら、好奇心を抑えて、遠回りを辞さないことだ。
 第二点、リサーチは度を過ぎやすく、過ぎたリサーチは過信を招きやすいということ。それはもはやサーチ、己の振りから目を背けた節操の無い詮索である。
 親を『あなたのため』という過干渉に駆り立てるのは過信、『あの子のことは私が一番よく知っている』という無知の知によるところが大きいと思う。もっともSNSが浸透した現代、人の持つ別の顔は限りなく分裂しているので、過信に陥るほど思いあがる人は少ないだろう(と、信じたい)。
 また、過ぎたサーチは後述の2つの努力の妨げになる。3つの不断の努力とは、重ねれば重ねるほど良いということではなく、バランスが肝心だと思う。

 ここでも、重要なのは直接対話だと思う。
 しつこく噛り付いて問い質すのが良いというのではない。友人との関係と同じ、知って欲しいと思っていることを探って聞き、詮索して欲しくないと思っていることを察して聞かない。特別なことを知る必要はない、その子の常態を把握していれば、自ずと気付ける異常があるはず。


・リメンバー[Remember]
 語源は『again mindful』、(意識的な努力を要せずに)覚えているということ。教育に限らず、上に立つ人に求められる能力だと思うが、真に備えている人は稀だ。
 記憶力の問題ではない。これこそ『礼』の本質かもしれない。
 それを欠いている人、『リメンバーが無い人』の特徴を示すと分かり易いと思う。ただ、これは極端な例(と、思いたい)と断っておく。

 『リメンバーが無い人』は、インプット(他者の意見)とアウトプット(自身の行動)の間に断絶がある。他人の話は聞いているし憶えているが(ただ、考慮を働かせているかは不明)、いざ行動となるとインプットはすっぽりと抜け落ちる。もしくは都合よく解釈し、安直な自己判断ばかり優先しがちな傾向にあり、事後承諾を求めてくる。
 『リメンバーが無い人』は議論に積極的でなく、簡単に折れる。折れるが、反故に抵抗が無い。議論を軽視しているというより、河合隼雄先生の言う[潜在的ルール]、言わば日本の『空気』に適応的なのだと思う(ルールの遵守を大事とするのではなく、『空気』に合わせている大事とする)。
 悪人ではないが、他人の話を全く聞かない人より性質が悪い場合がある。相性が悪いとき、話を聞かない人は早々に見切りをつけられるが、このタイプを見極めるにはとても時間がかかり、人によっては真綿で首を絞められるような精神的苦痛を味わうこと(「また聞くフリなのか?」と疑心暗鬼。考えることへの徒労感、対話の諦め)になる。
 『リメンバーが無い人』を変えられる可能性は低い、まず無理だ。付き合うのが苦痛ならば有効な対応は一つ、距離をとるしかない。というのも、問題は『リメンバーが無い人』ではなく、リメンバーを求めてやまない人にあるのかもしれないからだ(つまり、リメンバーが無い人と性格が合わない人こそ、日本の『空気』に適応的でない。マイノリティーなのかもしれない)。

 その有効性はともかく、リメンバーの体現は難しい。身に着けようとして身に着くものではない。ただ、1人でもコミュニティに居れば、大きく違うと思う。
 自分たちにリメンバーが欠けていると思うなら、外に探すことだ。それも簡単ではないが。
 ……社会に正直者は必要だと思う、しかし正直者は生き辛い。


・リニューアル[Renewal]
 更新。子の成長、変化を認めること。
 当たり前だが、子供はあらゆる面で変化が激しい。『スキ』『キライ』が引っくり返ることもザラだろう。
 『子供は興味の対象がコロコロと変わるものだ、寛容にしなさい』というのではない。良くも悪くも『想定内・思い通り』の成長に留まる子の姿を見て安堵してしまう、そんな自分に気付き改めることだ。
 アイデンティティの萌芽ができてからの話になる。『おおかみこどもの雨と雪』にて、『雨』が老アカギツネを先生にした展開、『バケモノの子』にて九太が渋谷に戻る展開を思い返してほしい。
 特に難しいのは、自分の意にそぐわない成長を認めること。自分の支配下から外れ、一層豊かになった子の人生を認めること。子離れの気付きもまたリニューアルである。
 子の成長を『手がかからなくなった』と寂寥感を滲ませて語る人にはリニューアルは無い。顔に泥を塗られるような悔しさを味わいながらも、自分の『手が及ばぬ』ことを悟るのが辞譲たるリニューアルだ。
 両者を比較したとき、顕著な差は怨慕に顕れると思う。前者は希薄、親への興味が離れただけ。後者は怨念が強い、だからこそ怒りに目を曇らせず冷静にならなければ、子の胸に秘めた慕情を見逃すことになる。
 己の手柄でない子の成長こそ心から喜べれば良いのだが、実際は難しいことだ。


 3つの不断の努力、そのバランスは「子育ての参加者全員」で取られうると考える。参加者が多ければ多いほど安定すると思うので、私はかつての日本の「子育ての共同体」を再評価したい。
 ただし、「子育ての共同体」にヒエラルキー構造が導入されてしまうと、非常に拙い。父親が母親の部下であってはいけないし、母親が父親の部下であってはいけない。子供の前での平等が無ければ「子育ての共同体」は無い。
 そう、『妻(夫)へのリスペクト』無しに、『子へのリスペクト』は無い。


 次項より、その不断の努力のパラメーター具合から導かれる選択肢を3つ挙げてゆく。
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