『次郎物語』の穿った見方:良妻賢母思想に踊らされた母、お民
更に他の一人は、「次郎は変質者だね。」と言った。
これには私はかなり考えさせられた。そして、もし次郎が、その人の言うとおり、変質者として描かれているならば、彼を広く一般の親たちに引きあわせるのは、大して意味のないことだと思いはじめたのである。
で、その後、私は何回となく原稿を読みかえしてみた。しかし、私自身には、次郎が変質者であるとは、どうしても思えなかった。
次郎は、誰が何と言おうと、他の多くの子供たちと同様に、食物をほしがり、大人の愛をほしがる子供に過ぎないのである。(中略)世の中には、どんな健全な人間をでも、一見変質者らしく振舞わせる二つの大きな原因があるが、その一つは食物の飢餓であり、もう一つは愛の飢餓である。
『次郎物語』第一部あとがき
次郎物語は度々映画化された。
1941(次郎物語・第一部の出版年)、
1955(著者・下村湖人の没年。清水宏監督が脚色、第一部以降は独自色が強い)、
1960(二部作。第1作は第一部・第二部、第2作は第三部・第四部)、
1987年(第一部のみ)の4回だ。
加えて1956、1964年2回テレビドラマ化されている。
やはり、最も人の心を掴むのは母の死によって幕を閉じる第一部だろうか。
20年以上の時を経て作られた、現時点で最後の映画作品である1987年の森川時久監督作品は『親と子の心のふれあいを描いた古典的名作の映画化』……らしい。
しかし、次郎物語・第三部の冒頭には次のような記述がある。
(略)もっとも、母乳の欠乏というようなことは、何も取りたてて言うほど珍しいことではなく、世間には母の思慮深い処置によって、それを運命というほどの運命と感じないで育って行く子供も、ずいぶん多いのである。
だから、次郎の場合、もし母の無思慮、というよりは、その生半可な教育意識が、乳の欠乏ということをきっかけに、つぎからつぎへと母としての不自然さの罪を犯してさえいなかったら、次郎の運命はあるいは全くちがったものになっていたかもしれない。
そう考えると、彼のきびしい運命は、母の乳房からはじまったと言うよりは、その乳房の二三寸奥のほうからはじまったと言うほうがおそらく正しいだろう。
ともかくも、お民(※次郎の母の名)のような母をもった子供が、生まれ落ちた時に授かった天性をそのまま伸ばしていけるかどうかは、すこぶる疑わしいのである。
とあり、湖人先生は母・お民を『体調不良によって寄り添えなかったことより、生半可な教育意識で余計な手出しをしたことが、母としての失敗につながった』と記している。
それが具体的に記されているのは、第一部の次の部分だと思う。
(略)何でわざわざこんな家を選んであずけられたかというと、それは、母のお民が、子供の教育について、一かどの見識家だったからである。
彼女は、槍一筋の武士の娘であった。そして、幼いころから幾十回となく、孟母三遷の教えというものを聞かされて、それになみなみならぬ感激を覚えていた。で、自分に子供ができたら、機会を見つけてそれに似たようなことを実行してみたいと、かねて心に期していたのである。
こうした抱負をもった彼女にとって、お浜(※次郎の乳母)一家が学校の中に寝起きしているということが、大きな魅力にならないわけはなかった。
物語の中、【一かどの見識家】だと自負しているお民は『孟母三遷の教え』を『(偉い学者に)子供を育てあげるには学校の傍が良い』と思い込んで、次郎を校番の家に預ける。
そしてお民は『孟母三遷』の顕著な効果が顕れない次郎を『孟子の場合とちがって、学校というものの感化力が思ったほどでない』と他人事のように述懐し、お浜に親しみすぎる次郎の傾向を矯正しようと色々と画策する。
それから次郎が迎えるきびしい運命についてはあなたの目で追ってもらいたい。
さて、どれくらいの方が『孟母三遷の教え』を正確に説明できるだろうか?よく知っている年代の方でも、うろ覚えではないだろうか?
次郎物語の中に『孟母三遷の教え』の正しい解釈、湖人先生の考えが記されているわけではない。
私はというと、養老先生の著書からその言葉を知った後、広辞苑で意味を調べただけで知ったかぶりであった。教育のためということで、長らく『墓場、市場、学校と、我が子に世間を見せて回ったんだろうなぁ』と、釈迦の『四門出遊』に類似した行ないだと思い込んでいた。後に当たった文献では、『墓場にて孟軻が供物で遊んでいたので、母は云々』と、頑是無い子供が道を外しているように意訳・脚色していて、さらに勘違いを続けることになった。(原典は『幼き孟軻は墓堀人を真似て遊んだ』というくらいの記述)
実のところ、原典である『列女伝』は、後世の研究から史書ではなく、明らかに『人物伝(史伝)の形を取った説話集、教訓譚』らしい。
著者・劉向の手による潤色、修正加工、再話、さらに主人公と物語の創造もあるという。もっとも、立派な学術資料であるし、それなりに納得できる経験則として読めるので、全くの出鱈目とも言い難いらしいが。
私の読んだ『列女伝』は訳注者が中島みどり先生のもので、先生の注釈のお陰で客観的事実を見極めてすいすい読めたが、中島先生があとがきに【この書物が中国二千年の礼教社会の中の女たちの被抑圧と受難の記憶を呼び起こし(中略)魂がきりきり纏足させられるような苦痛と息苦しさ(略)】と記すよう、現代では受け入れがたい価値観も多く、古代の男性社会の理想に過ぎないと意識しなければ読み難い代物であり、手放しで称賛できるものではない。
そんな孟母伝を、何故お民は持て囃したか?
香山リカ先生は『母親はなぜ生きづらいか』にて、明治の新体制の始まりを契機に子育ての主役が父親から母親に移ってゆく日本の教育史を解説しているのだが、興味深いことに湖人先生の生い立ちはその歴史と重なるところがある。
明治15年『新撰女大学』(子育てに言及した記述が登場するようになった女性向けの教科書)刊行された年の2年後、明治17年に生まれる。
そして、比較的豊かなクラスの母親が家庭教育論ブームに乗り出してきた明治三十年代、湖人先生は佐賀中学受験失敗、翌年合格する。(家庭教育は、地位向上手段がかなり限られていた女性の選択肢だった。『田澤薫氏は、明治二十年代から三十年代にかけて心理学者や小児科医が児童研究目的で推奨した「育児日記」が母親対象の雑誌に掲載され、大きな関心を生んだことを指摘する』)
社会の変化を目にしてきたと言うと言い過ぎかもしれないが、子供心に少なからず空気を肌で感じていたのではないだろうか。賢母思想に思うところ、違和感があってもおかしくはない。
おそらく、頼りとなる情報が足りないが故に、少なからぬ昔の家庭教育母がそういう『列女伝』、孟母三遷の教え、孟母断機の教えをありがたがっただろう。
安易に「昔の話だ」と突き放すことは出来ない。誰もが視野狭窄に陥りやすい教育の事、決して他人事とは笑えない話だ。
巷には『偉人の登場、偉業の達成の結果、賢母が産み出される』そんなパラドックスが溢れているではないか。
さて、孟子自身は賢母を推奨しているだろうか?
仁義に最大の価値を抱く儒教の先生らしく孝子を説き、換え子教育を推奨しているが、母の道を熱心に説いてはいない(君子に限った話かもしれないが。日本では江戸後期の農村指導者、大原幽学が換え子教育を提唱したという)。
子の教育責任が父にあることを説いている(妻の教育責任も夫)。
弟子の公孫丑がたずねた。
「昔から君子は自分では直接に自分の子供を教育しない、ということですが、どういうわけでしょうか」
孟子はこたえられた。
「それは自然のなりゆきとしてうまく行かないことが多いからだ。
なぜなら、教える方では、必ず正しい道理を行なうようにときびしく教えるものだが、もし教えた通りにうまくゆかないと、そのあとついつい腹を立てて叱ってしまう。そうなると、がんらい自分の子を善くするつもりではじめたことが、反対に子に対する愛情をそこねる結果になってしまう。
また子の方でも「お父さんは私にばかり正しい道理をきびしく教えていながら、ご自分の行ないはさっぱりではないか」と考えるようになる。こうなったら、それこそ親子がお互いに愛情をそこねあうというものだ。親子の間でそこねあうのは甚だよろしくない。
そこで、昔は自分の子供を他人の子供ととりかえて教えたのだ。
いったい、親子の間では善を責めあうべきものではない。善を責めると、親子の情が離反してしまう。親子の間が離反するのは、それこそ人生これ以上の不祥な事はない」
『孟子』離婁章句
お民と次郎の関係に符合するところが見出せる。
……いいや、現在でもよくある、普遍的な問題の指摘ではないだろうか?
なお、古代中国の教育について注意しておきたい点がある。
1、シングルマザーが珍しくない。
2、子の成人以前の教育はすべて母が責任を持ち、子が成人すれば父に責任が移る。
どちらも重要な違いである。日本の現状を顧みて考えてほしい。
……西部邁先生は『孟母三遷の教え』を「〝いじめ〟に遭ったら逃げ出せ」の教えだと勝手に解釈しているという。案外、そういう解釈に落とし込むのが一番良いのかもしれない。