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「信州そば」に呪いをかけられて6年が過ぎた
他県から信州に遊びに来た人は、決まって言う。
「信州って言ったら、そばでしょ?」「本場のおそばが食べたい」
その言葉を聞くたびに、僕は少し複雑な気持ちになる。聞かされる「信州そば」への憧れが無邪気なものであればあるほど。
何が僕をそうさせるのか。なんなら、僕自身も信州に移り住む前は、同じように漠然と思っていた。本場の信州で食べるおそばは何か違うはず。
だけど、その勝手な想いは早々に覆されることになる。
まだこっちに移り住むための準備で東京から行ったり来たりしてた頃。僕ら以外オール信州人の面子で、お昼ご飯を食べたときだ。
僕は無邪気に聞いてみた。
「やっぱり信州って、おそばが美味しいんですよね?」
なぜか一瞬、微妙な間があって信州人は顔を見合わせる。
「……そうかな」
そうかなって何? そこは控え目に同意するところじゃないの? まるで「信州=そばが美味しい」を根底から覆すような空気。
「結構みんなうどんとか、ラーメンのほうが好きかも」
「そうそう」
みんなの表情がぱっと明るくなる。口々に信州人の「うどん愛」「ラーメン愛」が飛び出てくる。まさかの「信州そば」NGワードだったのか。
「まあ、観光地ではそばの店推してるけど、そんなに美味しくはないよね」
ダメ押しのように、信州そばが潰される。信州そば息してるだろうか。
言われてみれば、たしかに道路沿いにはラーメン店が目立つ。あと、全国チェーンの某四国の地名を冠したうどん店。どっちも結構賑ってる。
*
もしかしたら「信州そば」は概念だったのか。
じゃあ、一応、ぽつぽつと存在する信州の蕎麦屋さんは、何を提供してるのか。概念としての信州そばが逆に食べたくなる。
新そばの季節。僕らは意を決して地元の蕎麦屋さんを訪れる。秋晴れ。信州ブルーの透明な青空。蕎麦日和があるとしたら、こんな日のことを言うのだろう。
少しの期待感と共に、ギリ観光地の空気から外れた蕎麦屋さんに入る。お店のアプローチに植えられた樹々も紅葉していて、七味唐辛子を思い起こさせる。
アプローチから店までが微妙に遠い。そして店の入り口の手前に小屋のような建物があり、貼り紙がしてある。
《お客様は店主の案内があるまで店には入らず、こちらでお待ちください》
なるほど、そういうスタイルの店なのか。他にどういうスタイルがあるのか分からないけど、僕らは素直に従って小屋に入る。ただ、ひとつ疑問が浮かぶ。小屋にお客が入ってるかどうか、店主はどうやって確かめるのだろう。
もしかしたら小屋に監視カメラ的なのが付けられていてモニタリングされてるのかもしれない。
けど、この時点で小屋のお客は僕らだけだし、すぐに呼ばれて店に案内されるよね。そんなことを話しながら待つ。10分、20分……。これ、永遠に案内されないやつじゃないのか。
疑問が疑惑に変わっていく。
さすがに30分経ったところで僕が店を覗きにいく。小屋で待ってる僕らの存在を認識してもらうだけでいいから。
僕が店の戸をガラッと開けると、店主自ら接客をしている。
「あの、すみませー」
「これだから嫌んなるんだよ。あそこで待つように書いてあんだからさ」
僕の声をぶった切って店主が言う。
仕方なく、僕は小屋に戻る。途中でおばさん3人連れが小屋を素通りして店に入っていく。あーあ。店主に怒られるのに。
そう思って見てると店主はにこやかに、おばさん3人連れを店内に案内している。
こうなったら僕らも店に入るしかない。空いてるテーブルに座って待つのだけど、店主は一向に僕らのところには来ない。それどころか次々に新しいお客のところで注文を伺ってる。
蕎麦屋に蕎麦湯があるのは知ってたけど、透明人間になれるとは知らなかった。
諦めて、僕らは店を出て行く。
この件で、まあまあ心が折れたのだけど、まああの店の店主が偏屈で(個人の感想です)相性が合わなかっただけなのかもしれない。蕎麦屋さんとの相性ってなんなんだ。
なんとか気持ちを立て直して別の、今度はさらに観光地色が薄くて地元感が濃い蕎麦屋さんに入る。
「いらっしゃい!」
威勢のいい店主の声。信州って土地柄なのか、わりと控え目な接客が多いのだけどこの店なら大丈夫そうだ。
今度はちゃんとすぐにテーブルに案内されて、お水とおしぼりも渡される。貴族のサービスだ。
僕らは、この店の看板メニューのそばを注文する。やっと信州そばを食すことができる――はずだったのに、またなにか様子がおかしい。店主が妙に動き回って、店主の奥さんらしき女性とやりとりしてる。
店主が僕らのテーブルにやって来て言う。
「すみませんね。ちょっと粉がなくて。粉さえありゃ、俺ぁそば打つのは早いんだ」
ここでその自慢を披露されても困るのだけど。というか、なんで今気づくんだ? 開店する前に確認とかしないの?
いろいろ疑問はあったけど仕方ない。どうしようかと思ってると店主がおもむろに電話をかけ始める。
「あ、もしもし? 粉屋さん?」
どうやら粉屋(というか製粉の卸店?)に電話してるらしい。急いで粉を持って来てほしいとかなんとか。なんだかんだ5分くらい店主がしゃべっている。
すると、突然、店主の表情が変わる。
「え、粉屋じゃない?」
僕らの頭の中も「???」になる。粉屋さんに電話してたんじゃないのか。じゃあ、どこに電話してたんだ? いったい、何を話してたんだろう。粉屋じゃないのにそんなにしゃべることあるのか?
もうわけがわからない。店主が電話を切って、また店の中をうろうろし始める。僕らは小さな声で「また来ます」とだけ言って、そっと店を出る。
これはきっと信州そばに呪いをかけられたとしか思えない。
あれからもう6年になるというのに、それ以来、信州そばの店に足を踏み入れることができないでいる。
信州そばの呪いが解けたのかどうか。僕にはまだ確かめる勇気がない。