noteのおかげで本当に読者がいた
雑誌のライター時代もそうだったけど、書籍のライターをやっていても「読者」を感じることって実はほとんどない。
発行部数何万部の雑誌でも、重版がかかった本でも。
もちろん、現実に雑誌や本が売れて(何かの理由で必要としてくれる人が買ってくれて)いるから仕事が成り立ち、それは読者がいることに他ならないのだけど書き手には「読者がいる実感値」がないのだ。
読者を想定しないとかそういうことではもちろんない。企画段階から取材、構成、執筆段階でもずっと想定している。どういうふうに想定するかは技術的な話だし、ほとんどの人は興味なさそうだから書かないけど。
もちろん想定どおりに読者が読んでくれるとは限らない。けれど、最低限クリアしないといけない読者想定は越えてる。たぶん。じゃないと、自分が担当した本がひどいレビューであふれかえることになる。
なのに読者を感じないって何なのか。ずっと、そんなものだしと思ってたけどnoteで書き始めてから少し変わった。あ、読者がいる。そう思うことが増えたのだ。
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サトウ カエデさんとか、ワダシノブさんとか(もちろん他の人も)記事の中で何気なく触れてもらってたりするとすごく嬉しい。僕の記事きっかけで、前から思ってたことを記事で書いたとかいいんですかそんなのと思う(べつに僕の記事がすごくよかったということではない)。
なんなら自分が書いた本のAmazonのレビューで☆☆☆☆☆がつくより嬉しい。なんだろうなこの感じ。
Amazonでレビュー書いてもらえるのも☆の数に限らず、作り手書き手には有り難いのだけど(いろんな意味で)、それよりnoteで何気なく言及してもらえるじんわりした幸福感。
たぶんレビューという閉じた世界じゃない、ご近所感というか人感のあるところだからなんだろうね。
で、結局何が言いたいのか。僕のいる業界で「読者」と当たり前のように呼んでるけれど、ほとんどの場合、無意識レベルで「本を買う人」設定で止まっていてそこで閉じている。
だから本が何万部売れても(何万部なんて出版業界全体の1割もないけど)書き手が読者を感じることが少ない。ファンマーケティングとかファンベースなんかをやって、読者と一緒に本のその先の価値も一緒につくってるなら別だけど。
そう考えると、noteの読者ってメディアの中では貴重な本当に「人間味」のある読者だなと思う。書き手がテキストを通してつくったものを受け取って、それを自分なりに何かに使ったり、考えたり、世界の一部にしたりしているのを感じられるから。
なんだろう、書き手と読者が一つのエコシステムの中で共生してることがいいのかも。中途半端な考察になってるけど(そこはまた深く掘ってみたい)、とにかく本当の読者ってありがたいなという話です。