徒然と。
明日からの旅行に思いをはせる、ひじき茶々です。
旅行は自分が大事に思うかたとの2人旅行です。楽しみです。
すでにそわそわしてて、洗濯物を干し忘れていました。洗濯機のスイッチも押していませんでした。心はもう旅行先です。
なんとなく、つらつら書いていこうと思います。
僕は今、Spotifyというアプリで曲を流しながらパソコンに向かってこの文章を打ち込んでいます。
こんなことをしていると、昔から変わっていないのかもしれない。
僕は、小説を書いていた時期がある。今はもう書いていないし、過去の作品も燃やしてしまった。でも、今でも変わらないことがある。それはこうやって文章を打ち込んでいくことだ。それは今でも大好きなんだと実感する。
いつか、もし、いつの日か。
小説を書くことが出来たなら、それは至福かもしれない。
自分の言葉を文字として、文章として、形として残せるなら。
自分という嫌というほどちっぽけな存在の小さな小さな力でも、必要としてくれるなら。
僕は、いつか、描けるんだろうか。やっぱり自信はない。
自分がのぞむ世界は、どうしたって幸せな世界だ。だけど、描く世界は黒く塗るつぶされている世界で、苦く笑ってしまうんだ。
描く世界の調節ができていないのかもしれない。
みんなそうなのかもしれないけど、いや、そうだと思うんだけど。
僕は、こうやって文章を書くとき何を考えているのかわからないんだ。僕の中にある、何か得体のしれないモノが、真っ白な世界に色を付けていく。
そして書き終わって、こんなことを考えていたのか、描いていたのか。なんて驚くことがある。
これは、衝動なのか、暴走なのか。なんて、考えてしまう。
僕は、なにより口を使って話すことが苦手だから、余計そうかもしれない。セリフや決まった文章があれば、緊張してでも話せるけれど、フリートークと言われるようなアドリブを利かすことはできない。雑談も苦手かもしれない。
しかし、話すのは好きだ。1対1で、話をすることは特に好きだ。反対に、2対1になると口を閉ざしていまう。僕は、じっくり話すことが好きだし、マイペースに話せることが良いらしい。
相手の声、表情、声音、声のトーン。
沢山の合図があふれている。僕は、それをうまく受け取ることは出来ているのか自信はない。でも、そんな風に感情や表情を直接受け取ることが出来るのは対話の醍醐味だろう。
そして、文章を描くこと。
僕は文章を書くことで、いや、描くことで「生きている」ことを実感しているのかもしれない。どんな形だろうと。
えがく。描く。
僕は文章を書くことを、描くという。なんでだろう。でも、そっちの方が僕にはしっくりくるのだ。例えるなら、イラストのようなものに感じているからだろう。
僕のこのような文章は、ノートの端っこに描く落書きのようで、キャンパス一杯に描く希望だ。そして時には、人の骨を砕く兵器にもなるかもしれない。
僕は、俗にいうお豆腐メンタルだ。
しかし、お豆腐メンタルが、どのような意味合いで使われているのか、きっかけはなんなのかは僕は知らない。1つ言えることは、それは、言いえて妙ということ。
お豆腐を想像してみてほしい。
麻婆豆腐、冷ややっこ、湯豆腐などなど。主役にも副菜にもなりえる、素敵な食材。大豆から作られているし、ヘルシーで栄養もある。安い。
お豆腐メンタルこそ、志向である。
なんて、思ったことがある。本来のお豆腐メンタルの意味はよく知らないが、僕は思うお豆腐メンタルは、凄くすごい。
なにより、豆腐である。気づけばどこでも売っているし、嫌いな方もあまりいないのではなかろうか。
お豆腐メンタルを自虐等で使う人もいるが、豆腐を見ていくと、豆腐はポテンシャルが高く、タフである。
そんな感じがする。
傷をつけられても、お豆腐メンタルならば麻婆豆腐に変身するように。
そんなことを考えているのに、きっとまた僕は、「お豆腐メンタル」を自虐として言ってしまうんだろうな。
そんな自分が時々悲しい。
お豆腐に失礼ではないか。
あの、つるんとしたすべすべの素肌。
どーんと存在感をあげる重さ。
食材に合わせるように淡々と、でも、確実に、からだに良い。
あっさりとして、でも、しっかりしている。
徒然と書いていくと、どうしても文章がとっ散らかってしまう。それでも、書くのは好きだなあ。なんて再発見していく。
僕の人生は僕のものだ。