「フランクフルト学派 ホルクハイマー、アドルノから21世紀の「批判理論」へ」 細見和之
中公新書 中央公論新社
フランクフルト学派(これも外側からつけられた便宜的名称)の特徴の一つとして、「批判」はするけど、「解決の見取り図」は(意識的に)出さないというものがある。これはどう捉えればいいのだろうか。
(2015 03/08)
水と油の思想×変容する社会概念=フランクフルト学派?
こんな見取り図みたい…細見氏の「フランクフルト学派」。 フロムがフランクフルト学派時代に行った仕事がマルクスとフロイトとの思想の融合。一見正反対に見えるこの2つを補い合いながら取り入れていく。その際のキーが変容ということ。ただしアメリカ亡命後、「自由への逃走」等で有名になった分、この時代の業績は軽く見られているのでは、と細見氏。
一方、社会科学研究所所長(2代目)のホルクハイマーはフランクフルト学派全体を貫く「批判理論」を提唱。ここでも変容ということがマルクスから引き継がれている。2つの異なる思想の融合という点は今でもハーバーマスに継承されている。 大まかな見取り図だけど… 以上、昨夜読んだ第2章。
(2015 03/09)
ベンヤミンとアドルノとブレヒトと
昨日は第3章のベンヤミン。この本見るまでフランクフルト学派であったということ自体知らなかった。けど、研究誌に論文を5本掲載しているし、特にアドルノとはいろいろ昵懇であったらしい。アドルノ側でベンヤミンにかなり思い入れがあったらしい(ベンヤミンの方が10才くらい年上)が、相違点を書簡でやり合っていた。
細見氏が挙げる相違点は3つ。ベンヤミンは弁証法の止揚の例を挙げずに併記で終わっている、芸術の自律を認めていない(実用主義だけ)、(あと一つ思い出せない…)。 この書簡集も出版され、翻訳もある。
アーレントがベンヤミンの遺稿をアメリカへ運ぶことを委ねられていたこと、写真や映画などの複製芸術で重要なのは編集可能性であることなど。 ブレヒトはアドルノに対しての批判?をベンヤミンに漏らしていたらしい。
…ベンヤミンとアドルノの相違点、3つ目の相違点はマルクス主義の位置付けについて。主にボードレール論などで、ベンヤミンは安易に上部構造(ホードレールの作品)と下部構造(当時の経済状況)とを結びつけている、とアドルノは言う。アドルノにしてみれば、研究誌に掲載できるようベンヤミンが(自分の考え以上に)マルクス主義を取り入れ過ぎている、と感じていたようだ。
(2015 03/11)
啓蒙の弁証法
第4章の「啓蒙の弁証法」昨夜読んだ。これは岩波文庫で出ている。
ホルクハイマーは最初はマルクーゼと組んでこの本書くつもりだったらしいけど、後にアドルノになる。マルクーゼは、第二次大戦後の著作見るとあんまりホルクハイマーの批判理論とは合わない直接的理想論を出す人みたいだし、アドルノのミクロな視点にホルクハイマーが同調したということもある。
オディセウスを例に引きながら、「啓蒙の中に野蛮が取り込まれている」が、「想起するが過去の話に野蛮を閉じ込めるメルヘンの視点」と「日常にある予測されない自然」に希望を託す、とそんな感じ。
前にフランクフルト学派は解決策の理想像を提出しない、と書いたが、その理由らしきものがこの本に書いてある。
(2015 03/12)
アドルノと4人の詩人達
「フランクフルト学派」昨夜は第5章の半分。
アドルノの一番有名な言葉「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮である」について。
一世代若い1929年生まれ(ハーバーマスと同年)のエンツェンスベルガーはこの言葉に対して批判し、大戦中スウェーデンに亡命しなんとかホロコーストを逃れたザックスというユダヤ人詩人の場合「アウシュヴィッツの後だからこそ詩を書かなければならない」と述べた。この応答は(フランクフルト学派が大事にする弁証法という意味においても)双方の成果なのだろう。
また、まとまった詩論こそ書けなかったものの、アドルノが一番評価していたのがツェランで、ツェランもまたアドルノから大きな影響を受けている。
さて、4人目の詩人はこの本の著者細見氏自身。この人も3冊くらい詩集を出しているという。 あ、もちろん、アドルノの言う「詩」とは、文字通りの詩だけでなく、人間の文化活動、ひいては生活全般を視野に含めていることは言うまでもない。 あと、アドルノの「ミニア・モラリア」も面白そう。断片集。アリストテレスの「大倫理学」に絡めた題名。
日本でもドイツでも歴史修正主義の動きはあるけれど、批判する声が日本では微弱な気がするのだけれど…
(2015 03/13)
非同一的なもの・ミメーシス
まあ、いじめからホロコーストまで続く異化の論理。しかし、実は身近なすぐ近くに非同化的なものがある。それを見つけ出す能力がミメーシス。アドルノはこのミメーシス(模倣)という概念をタルド「模倣の法則」から受け継いだ。
ただし子供から大人まで、模倣はだいたいにおいて偏見・軽蔑に結び付くことが多い。大切なのは異化したものは自分自身が何らかの敬意をもって異化したことを思い出すこと、同じものをある視点では同化し、また別の視点では異化し、と再認識の連鎖が必要なこと。
他にはアドルノお得意の音楽の話題や社会調査の話など。 これまで自分の中では、ちょっと固そうでいまいち近づけなかった印象のアドルノだが、今回これ読んだことによりだいぶ身近になった。次は第6章ハーバーマス。
(2015 03/14)
ハーバーマスと論争相手
「フランクフルト学派」はハーバーマスと第3世代(以降)。ハーバーマスがフーコーやデリダとの共同声明・討議をしていた(計画があった)というのは、激しい論争相手であったという事実を踏まえると実に興味深い。
ハーバーマスには『生活世界」と「システム」(権力をメディア(媒介)とする政治システムと、貨幣をメディアとする経済システム・・・これをハーバーマスはパーソンズから受け継いだ)の、自立・目的化との対峙が近代社会であるとの認識があった。
第3世代ではホネットとフレーザー(アメリカ)との「承認か再配分か」の論争が面白そう。
(2015 03/15)
論争とともに思想を磨く
(補足:「現代思想の冒険者たち27「ハーバーマス」」中岡成文 より)
「討議制コミュニケーション」を重視するハーバーマス。科学実証主義との論争後、次はガダマーの解釈学との論争へ。実はホルクハイマーが危険視してフランクフルト研究所を追い出された(後年ハーバーマスはホルクハイマーの手記を見て、管理者の難しさとともにこのことを好意的にも見るようになるが)後、ハイデルベルク大学に誘ったのがガダマーであった。
ガダマーの解釈学はテキストの解釈から始まり、徐々に幅広いテキストから世界の認識まで守備範囲を広げていく(シュライエルマッハーとかデュルタイとかも面白そうだけど)。個と全体との対話のうちで、新たな地平(解釈)が現れる(この辺、クーンのパラダイム論が取り入れる)。
それに対しハーバーマスはただ対話するだけでは隠された秩序には気付かない、精神分析などを用いるべきという。当否はともかく、自分のイメージは対話が続き新たな地平になるごとに、地平の線分の長さは短くなっていく。その線分の長さが元に戻るのは、個と個が衝撃的に多数衝突(いってみれば戦争)しなければ起こりえない。とか思ったり。
あとは、フランクフルト学派第一世代ではマルクーゼに一番親近感を覚えていたらしい。ハーバーマスを見ていくことで(フーコーもそうかもしれない)、論争相手の(次はルーマン)思想も理解できてなかなかお得なのではなかろうか。
(2016 03/20)