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「ベルクソン思想の現在」 檜垣立哉・平井靖史・平賀裕貴・藤田尚志・米田翼

書肆侃侃房

このトークイベント参加者5人とそれぞれの代表的著書
檜垣立哉「ベルクソンの哲学 生成する実在の肯定」(講談社学術文庫)
平井靖史「世界は時間でできている ベルクソン時間哲学入門」(青土社)
平賀裕貴「アンリ・ベルクソンの神秘主義」(論創社)
藤田尚志「ベルクソン 反時代的哲学」(勁草書房)
米田翼「生ける物質 アンリ・ベルクソンと生命個体化の思想」(青土社)

ベルクソン4思想書をこの5人の中の2人(と司会)で語っていく形式。
基本的な流れとスタンスは、20世紀後半に一旦評価の落ちたベルクソンを再興せしめたのはドゥルーズで、この著書5人もドゥルーズを経たベルクソンを論じているということ。
実際の対談ではどのように行われたのかはわからないが、本ではほぼ一人一人の発言が分けてまとめられている。


第1章「時間と自由」(「意識に直接与えられたものについての試論」)


心は「質的」→「多様性・多様体」質的なものが集まってできた心→これらが時間とちもに「自由」へと発展していく。

 等質的なものが空間的なものであり、異質的な絡み合いが時間的なものである
(p43)

「功利性と力」
 いい意味も、悪い意味も全部ひっくるめて、この「どうしようもなさ」こそが時間の核心部分であり、それをベルクソンは「効力」とか「実効性」と呼んでいます。…(中略)…ただひたすらにそのようなものとしてあり、そのようなものとして充溢してあるありさまに「力」が漲っている。
(p48)


弁図見ると、効力のごく一部が功利性となっていて、効力は功利性を全て含んでいる。「どうしようもなさ」の海のほんの一部に功利性は浮かんでいる。ただ、功利性と直接に線を繋いでやりとりすれば、「どうしようもなさ」を縮減することはでき、その経路の繰り返しで「効力」の漲る力を感じなくなってきている。
(2023 01/07)

 日々同じことを繰り返しつつ、時の積み重ねによって変化がもたらされる。毎瞬間絶えず変化し続けるというところも大切には違いないんですが、持続という概念の力点はむしろ同じことの繰り返しが、しかしその反復自体によって微細な変化として感知される質を生み出すというところにあるのではないか。
(p60)


拍子とリズム(ドゥルーズやクラーゲス(「リズムの本質」の著書)はリズムを重視する代わりに拍子を下げる。しかしベルクソンはリズムも拍子も重視、規則的運動に拘る。
カントの「綜合」との対決。中動態あるいは「完了相」/「未完了相」というアスペクトで「持続」概念を見てみる。
藤田尚志氏のベルクソン読解と言語とベースにあるデリダ。

最後にベンヤミン。ベンヤミンとベルクソンはほぼ同時期にパリにいて、ベルクソンは国際的に様々な運動をしていた人だけれど、ベンヤミンはベルクソンを引用しているのに、ベルクソンは何もしていない。フランクフルト学派の社会研究所のパリ支部設立をベルクソンは支援していたようなので、今後書簡などが出てくる可能性はあるという。

 ベンヤミンの場合には、1930年代になると、機械的な技術を媒介にした写真や映画を見すえている。そこでは時間が一直線ではなく、ベルクソン的に言えば等質的な連続ではなくて、異質的な断続性があって、そこに過去が回帰してしまうのです。そうした出来事が無意識を孕みながら生じてくる媒体として映画の映像と写真を捉えようとしていたのです。
(p77)


これは会場に居合わせた、柿木伸之氏の言葉。岩波新書でベンヤミン論有り。

第2章「物質と記憶」


まず檜垣パートから。ドゥルーズの「シネマ」について。

 ベルクソンが映画は本当の時間を明らかにしないだろうと言ったことに対して、いえいえ違いますよ、映画こそが私たちに真の時間というものを、「偽なるものの力」という意味で観させてくれたんですよと論を転倒しました。
(p90)


弟子のドゥルーズが、師匠の論の展開を借りて師匠を論破するという、「よくある」形式。ドゥルーズは全くわからなかった(笑)けど、この辺りから再度攻めてみようか。

 記憶と物質(過去と現在)では薄められたとかいう「程度の差異」ではなく、ベルクソンは「本性の差異」があると提示してきます。過去と現在はある意味で絶対に違うと。また物質と記憶も絶対違う。この場合物質が現在で記憶が過去です。そのあいだには根本的な差異があるんだとベルクソンは言うんです。過去のほうはそっくりそのまま実在する。ここがこの本のものすごい面白いところです。ところが第4章の最後のところは、心身問題を述べるときに、現在と過去の間にあるのは程度の差異ではない、本性の差異が大事だと言っていたベルクソンが、今度は持続の差異の程度を問題にする。
(p95-96)


4思想書の中で一番人気らしいこの本、かつ一番難解らしい。過去と現在が違うものだというのは納得するけれど、「過去がそっくりそのまま実在する」ってなんだ? それに最後のところで程度の濃淡(というイメージは違うかも)にするというのも…ここは平井氏も藤田氏も苦労したところらしい。
というわけで、平井パート。本は「世界は時間でできている」。

 一体の生物の中にも階層があって、複数のタイムスケールが共存しています。この本で使っている人間のタイムスケールですが、今回は4つの階層に区別しました。ただ単に世界にいろんな時間が流れていますよというだけでなくて、自分の時間1つとっても、分子レベルで扱っている時間もあるし、脳のある階層で扱っている時間もあるし、人生というスケールの時間もあって、複層して流れているということです。こういうマルチタイムスケールの構造が、私たちの意識体験の内面的な現れ・現象的次元をもたらしているというのが基本的なアイデアです。
(p101-102)

 宇宙にはものすごい極細の時間の幅しかない。それが、生命が登場し、進化を通じて大きな分子ができて、さらに多細胞になり、複雑な神経系を持つようになって巨大な時間的な構築を作るようになった。こういう進化のストーリーが背景にあります。
(p103)


この辺は面白かったけれど、次のp105の図辺りはさっぱり…(本人も抽象的すぎるかも、と言っている)…続いて、時間が「流れる」のは実は現在のみ、それも幅は長くて3秒くらいだという。しかしここの流れ方も順番に流れるといったものではなく、未完了相のままペンディングされて動くのを待っているという。p110の時間階層の図も、じっくり睨んでまた考えてみたいところ(そんなんばっかり(笑))。
最後は、この5人の同僚でもあった宮野真生子氏(2019没)の遺構集「言葉に出会う現在」(ナカニシヤ出版)から。

 現実が生成する偶然の消えゆく一瞬と、時間全体が繰り返すことで凝縮された現在という2つの「永遠の今」、この2つの時間経験が交わる位置にあるのが押韻論であった。詩は流れる時間を現在へと折りたたむことを可能にする。(…)私は「私」から解放される。それは事柄が一回性を持ちつつも、時間の限定から自由になって無限に開かれるということである
(p114)


昨日の藤田氏の「リズム」の話とも共通する話。ベルクソンの基本が時間であるとすれば、それを生み出す(人間が認識するように企てる)リズムや韻というのは、ベルクソンの核心にあるのではないか。
(2023 01/08)

第3章「創造的進化」

 「生きている」ということをそっくりそのまま捉えるためには、もう一歩踏み込まなければならない。こういった流れで、私はベルクソンと共に、有機体を「組織された」というすでに完了した状態ではなくて、「組織されつつある」という未完了のプロセスとして捉え直すよう提案しました。
(p132)


未完了相のアスペクト。生殖する時には、組織化された細胞をまた異化させる。
(2023 01/09)

ちょっと間が開いたけど、第3章続き。
ベルクソン自身の引用続く。

 そして植物の有機組織のエネルギー源となる物質の典型的な元素が炭素以外のものであったら、有機組織の形成物質の典型的な元素は窒素以外のものになっていただろう。したがって、生体に関する化学は、現にある化学とは根本的に異なるものになっていただろう。
(p139)


米田氏の冒頭にあったオルタナティブ・バイオケミストリーの先駆けとも言える発言。ベルクソンは生物種の違いを「覚醒と微睡」と捉えていて、例えば植物が動かないのは、動くという要素が微睡んでいるだけ、と説く。この考え方を無生物の物質にも拡張していく(のはベルクソンではなく米田氏の方なのか?)。
ここから藤田氏。またもベルクソン「創造的進化」からの引用。

 生命一般は動きそのものである。生命の発露した個々の形態はこの動きをしぶしぶ受け取るにすぎず、絶えずそれに遅れている。動きはどんどん前進するのに、個々の形態はその場で足踏みしていたがる。進化一般はなるべく直線的に進もうとし、特殊な進化過程はいずれも円を描く。生物は一陣の風に巻き上げられた埃の渦のようなもので、生命の大きな息吹の中に浮かんだまま、ぐるぐると自転する。(…)生物は何はともあれ通過点であり、生命の本領は生命を伝える運動にあるのだ。
(p142)


藤田氏はこうしたところから、ベルクソンのイメージを一言で「螺旋」という言葉で現そうとしている。前進と足踏みは、「時間と自由」の時に出た効力と功利性にそれぞれ対応している。
また生き物がそれ自身とそれが生み出した道具・技術を全体として考えた稀な哲学者である、とベルクソンを評したカンギレム。これは「延長された表現型」(ビーバーの個体とビーバーが作ったダム、双方に共通するのはビーバーの遺伝子の顕示である)のリチャード・ドーキンスに受け継がれている。そういえば、先程のp142の文の最後の文章はドーキンスそのものではないか。

 このように自己解体しながら創造する動作というイメージを描くなら、それから得られる物質表象はもうよほど精密なものとなろう。
(p148)


ここに藤田氏はデリダの「脱構築」を見ている。

 植物と動物の「大分裂」に続いて他におびただしい分岐が生じたわけですが、「そこにはあらゆる種類の後戻りや停止や事故があったことも考慮されなければならぬ」とベルクソンは述べています。
(p151)


ベルクソンの目的論(目的論ではない目的論)の箇所。この文章かなり重要だと思うのだけれど、実は岩波文庫版では載っているのに、ちくま学芸文庫版ではこの一文が抜け落ちているという。なんとなくベルクソン買うなら、四冊揃っているしちくま学芸文庫で買おうかな、と思っていたところなので、ここは注意しないと。ちなみに目的というか進化において生命が必然的にしていることは2点ある、とベルクソンは言っている。

 (1)エネルギーを徐々に蓄積すること。
 (2)エネルギーを伸縮自在な水路に入れてさまざまに変わる不定な諸方向に流すこと。
 それらの方向の果てに、自由な行為がある
(p152)


ベルクソンの「目的」「必然」そして「人間中心主義」の核には自由を確保しようとする思想がある。

 確立された個々の学問分野の枠内では処理しきれないことに鋭敏な彼は、その狭間、その”あいだ“でこぼれ落ちようとしているものを掬い=救い上げようとしていたんじゃないか。
(p167)


ベルクソンが(非)有機的とその狭間の領域をいうところを、ドゥルーズは有機的と括弧を取って有機的なものを排除しようとする。シモンドン(技術の哲学?)も同じ傾向にあるという。ただドゥルーズの場合は「千のプラトー」においては「コード化」と「脱コード化」はセットであると修正していて、有機的なものも取り込もうとしている。

 連続性の世界に生きているやつらにそんなことはできない。でも、人間は世界の単位設定をまるっと変えてしまう。こうした知性の動きを私は脱組織化と呼びました。植物と比べて人類はもともと切れている。それは自由に行動できるということです。
(p176)


米田氏の言葉。自由というのが何なのか、ますますわからなくなってきた。
(2023 01/15)

第4章「道徳と宗教の二源泉」

この本は1932年出版。1859年生まれのベルクソンは73歳。この5年後には遺言書を作成し、ユダヤ人迫害に苦しむ人とともにユダヤ教徒に留まることを明言。アクチュアリティーもある書物になっている。

というわけで本題。まず平賀裕貴氏から。
この本は神秘家が引かれる。神秘家の神秘体験を見ていく(ここでブックガイドのブリュノ・クレマン「垂直の声:プロソポペイア試論」が関連する)。そうした神秘家の一人「十字架の聖ヨハネ」は自身の神秘体験を「暗夜」と呼ぶ。その「暗夜」を「二源泉」ではどう描いているのか。

 並外れた努力を行うことを目指して構築された恐るべき頑丈な鋼鉄の機械が、もし仮に組み立て途中に自分自身について意識を持つならば、自らが[合一経験と]同様の状態にいることにおそらく気がつくだろう。その部分のひとつひとつは極めて厳密な検査を受け、ある部分は破棄されるか他の部分に取り替えられ、この機械はそこかしこに欠如の感情を抱き、至るところに苦痛を味わうだろう
(p186)


ここでの「機械」は、複雑な機構を持って最終的に単純(と思われる)な結果を出すもの。機械が抱く欠如の感情…とか、組み立て途中の機械の意識はどのくらい組み立てられているのか…とか(それだけでご飯3杯いけるくらい)魅力的なのだけれど、でも、神秘体験と何の関係があるのかな。ちょっと考えてみたけれど、普段は普通に生活している人間が、「暗夜」に神秘体験を経験した場合、もう普通の生活に戻れずどちらにも振り切れない、というところだろうか。

続いては、ゼノンの矢のパラドックスと神秘家について。ゼノンのパラドックスは、矢の飛ぶ軌道は無限に分割できるから矢はいつまでたっても目的地に着かないというもの。それは事を起こそうとする人間もまた同じ立ち位置。

 だが、もし人が終点のみを考えて、さらに遠くを眺めつつ間隔を跨げば、無限の多様性の端にたどり着くのと同時に、容易に単純な行為を遂行する
(p189)


「さらに遠くを眺めつつ」というところが重要なのではないか、と思う。先への視線があれば、矢の目的地はそこへの通過点と認識できる。

藤田尚志氏パートへ移る。
誰かの呼びかけに応え、憧れを持つ。そして「ああいうふうに自分もなりたい」と行動する。

 行動に移る人は模倣者ではあるけれど、同時にすでに幾分かは創造者でもあるわけです。いかなる出会いにも言えることですが、奇妙な因果性があります。本当に出会うためには、すでに出会っていたのでなければならない、ということです。
(p197)


人と人が出会うのは、その時だけの動きかと思うけれど、実は前からその出会いを作り出そうと準備をしている。ただ本人はそのことに気づいていない…ということだろうか。
昨晩はここまで。

そして今日、藤田パート続き。
「目には目を、歯には歯を」の「中庸」な「測定可能」な道徳に対し、「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」という道徳は、調和の取れない測定不能な道徳。ベルクソンは「中庸」のままで行けばよかったのかもしれないが、「度を超して進んでいく」ことなしには進めなかったのではないか、という(二重狂乱の法則)。そしてその結果できてしまった「法外」な機械的身体、産業社会について。

 機械的身体の過剰は、絶対的正義の過剰とまったくの無縁ではありえません。もし無関係なのであれば、神秘精神が機械化を求めることも、機械化が神秘精神を求めることもありえなかったでしょう。
(p202)


こうしてみるとベルクソンは「調和」「測定可能なこと」について拒否しているように見えるけれど、ドゥルーズ辺り(「過激」)と違って、ベルクソンは「過剰」計算を過剰なほどにしてしまう人だ、と藤田氏は言う。

 経験の中の過剰なもの、経験のぎりぎりの臨界点にあるものを考えることで、現実の生の曲線を諦めないという姿勢を哲学的に実践しているんじゃないかと思います。
(p207)


(2023 01/23)

昨夜と今夜で第4章読み終わり。
創話(仮構作用)…物語を生み出す機能。これをベルクソンは、開かれた社会と閉じた社会の区別で言えば、閉じた社会に属するという…のがかなり意外。確かに社会の維持機能としての物語という側面もあるけれど。ただ、開かれた社会、動的宗教が普及するためには、創話機能の「イメージとシンボル」が必要になってくる、と一言だけ述べている、とのこと。

「笑い」と「二源泉」
岩波文庫版「笑い」の訳者、林達夫は「改版へのあとがき」でこう述べている、という。

 [レヴィ=ストロース『今日のトーテミスム』の]最終章「内なるトーテミスム」に辿り着いて、私は愕然として飛び上がりざま或る行にくぎ付けにされたのである。それは私もかつて精読したことのあるベルクソンの『道徳と宗教の二源泉』に言及している箇所で、そこで衝撃を受けたのは、レヴィ=ストロースが下した次の驚くべき断定であった。いわく「この書斎の哲学者は、或る点ではun sauvage のように思考している」と。つまりベルクソンはけっこう「野生の思考」型の人間だと言うのである。
(p216)


ここは「今日のトーテミスム」の方に是非当たってみよう(下の補足参照)。
最後は「ひとまずのまとめ」から平賀氏の言葉。

 時代に呼応する学説は自然とメジャーなものになりえますが、これに対峙していくということです。そうすると自ずとマイナーになってしまうということがあると思います。けれどもマイナーであっても、対峙することによって自分の思考を編み出していくってことが重要なのかなと。
(p223)


藤田氏の「反時代的」というのもそのような意味。
残るは第5章の五人の対談のみ。
(2023 01/25)

第5章の5人の討論


ニュー・マテリアル・フェミニズムとかエピジェネティックスとか全く未知の言葉が続く。分析哲学を充分踏まえた上でのベルクソン読解、ハイデガー、アドルノ、アーレントとベルクソン(ややベルクソンを浅く処理しているように見えても、まだそこには研究の余地あり)、そしてベンヤミンとの関わりでは、閉じたものと開かれたものという対比が、ベンヤミン「暴力論」での神話的暴力と神的暴力との対比と重なるところ。
日本の研究者が海外に向けて論文等を発表し、その作業を(中身はともかく数量的に)把握していくことも大事だ、という。
(2023 01/27)

補足:レヴィ=ストロース「今日のトーテミスム」該当箇所?


たぶんこの辺り…
(ちなみに章名は、このみすずライブラリー版では「心の中のトーテミスム」)
まずはアメリカのシウー・インディアンの一賢人?の思想。

 あらゆるものは、動きながら、ある時、あるいはほかのある時に、そこここで一時の休息を記す。空飛ぶ鳥は巣を作るためにある所にとまり、休むべくしてほかのある場所にとまる。歩いている人は、欲するときにとまる。同様にして、神も歩みをとめた。あの輝かしく、すばらしい太陽が、神が歩みをとめた一つの場所だ。月、星、風、それは神がいたところだ。木々、動物はすべて神の中止点であり、インディアンはこれらの場所に思いを馳せ、これらの場所に祈りを向けて、かれらの祈りが、神が休止したところまで達し、助けと祝福とを得られるようにと願う。
(p160)


続けて、ベルクソンの「二源泉」。

 大いなる創造力の流れが物質の中に迸り出て、獲得できうるものを獲得しようとする。大部分の点で流れは中止した。これらの中止点が、われわれの目にはそれだけの生物種の出現となる。つまり有機体だ。本質的に分析的かつ総合的なわれわれのまなざしは、これら有機体の中に、数多くの機能を果すべく互いに協力している多数の要素を見て取る。しかし、有機体生産の仕事はこの中止そのものにすぎなかった。ちょうど、足をふみいれただけで、一瞬にして、幾千もの砂つぶが、互いにしめし合わせたかのごとく一つの図案となるというような単純な行為だ。
(p160-161)


確かに似てる…ベルクソンの方はそのまま読むと「中止」であることが残念そうに書いてあるようにも見えるが、それは現在の世界が完成形であると考える人々(西欧キリスト教の価値観?)の立場に寄り添った表現になっている、にすぎない。
さて、レヴィ=ストロースが考える「親近性」とは…

 連続するものおよび非連続なものという名でベルクソンが呼んでいる現実の二面を総括的に把握しようとする欲求、両者の間の択一の拒否、両者を同じ真理に到達する相互補完的な観点としようとする努力を共にしていることに由来しているように見える。
(p161)


この努力こそがトーテミスムなのだ、という運び。また、そこにラドクリフ=ブラウンも加わるという。トーテミスム、野生の思考、それにここに出てくるデュルケームやルソーについては、また「今日のトーテミスム」読んだ時にね(いつだよ)…
(2023 01/26)

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