「ベルクソン思想の現在」 檜垣立哉・平井靖史・平賀裕貴・藤田尚志・米田翼
書肆侃侃房
このトークイベント参加者5人とそれぞれの代表的著書
檜垣立哉「ベルクソンの哲学 生成する実在の肯定」(講談社学術文庫)
平井靖史「世界は時間でできている ベルクソン時間哲学入門」(青土社)
平賀裕貴「アンリ・ベルクソンの神秘主義」(論創社)
藤田尚志「ベルクソン 反時代的哲学」(勁草書房)
米田翼「生ける物質 アンリ・ベルクソンと生命個体化の思想」(青土社)
ベルクソン4思想書をこの5人の中の2人(と司会)で語っていく形式。
基本的な流れとスタンスは、20世紀後半に一旦評価の落ちたベルクソンを再興せしめたのはドゥルーズで、この著書5人もドゥルーズを経たベルクソンを論じているということ。
実際の対談ではどのように行われたのかはわからないが、本ではほぼ一人一人の発言が分けてまとめられている。
第1章「時間と自由」(「意識に直接与えられたものについての試論」)
心は「質的」→「多様性・多様体」質的なものが集まってできた心→これらが時間とちもに「自由」へと発展していく。
弁図見ると、効力のごく一部が功利性となっていて、効力は功利性を全て含んでいる。「どうしようもなさ」の海のほんの一部に功利性は浮かんでいる。ただ、功利性と直接に線を繋いでやりとりすれば、「どうしようもなさ」を縮減することはでき、その経路の繰り返しで「効力」の漲る力を感じなくなってきている。
(2023 01/07)
拍子とリズム(ドゥルーズやクラーゲス(「リズムの本質」の著書)はリズムを重視する代わりに拍子を下げる。しかしベルクソンはリズムも拍子も重視、規則的運動に拘る。
カントの「綜合」との対決。中動態あるいは「完了相」/「未完了相」というアスペクトで「持続」概念を見てみる。
藤田尚志氏のベルクソン読解と言語とベースにあるデリダ。
最後にベンヤミン。ベンヤミンとベルクソンはほぼ同時期にパリにいて、ベルクソンは国際的に様々な運動をしていた人だけれど、ベンヤミンはベルクソンを引用しているのに、ベルクソンは何もしていない。フランクフルト学派の社会研究所のパリ支部設立をベルクソンは支援していたようなので、今後書簡などが出てくる可能性はあるという。
これは会場に居合わせた、柿木伸之氏の言葉。岩波新書でベンヤミン論有り。
第2章「物質と記憶」
まず檜垣パートから。ドゥルーズの「シネマ」について。
弟子のドゥルーズが、師匠の論の展開を借りて師匠を論破するという、「よくある」形式。ドゥルーズは全くわからなかった(笑)けど、この辺りから再度攻めてみようか。
4思想書の中で一番人気らしいこの本、かつ一番難解らしい。過去と現在が違うものだというのは納得するけれど、「過去がそっくりそのまま実在する」ってなんだ? それに最後のところで程度の濃淡(というイメージは違うかも)にするというのも…ここは平井氏も藤田氏も苦労したところらしい。
というわけで、平井パート。本は「世界は時間でできている」。
この辺は面白かったけれど、次のp105の図辺りはさっぱり…(本人も抽象的すぎるかも、と言っている)…続いて、時間が「流れる」のは実は現在のみ、それも幅は長くて3秒くらいだという。しかしここの流れ方も順番に流れるといったものではなく、未完了相のままペンディングされて動くのを待っているという。p110の時間階層の図も、じっくり睨んでまた考えてみたいところ(そんなんばっかり(笑))。
最後は、この5人の同僚でもあった宮野真生子氏(2019没)の遺構集「言葉に出会う現在」(ナカニシヤ出版)から。
昨日の藤田氏の「リズム」の話とも共通する話。ベルクソンの基本が時間であるとすれば、それを生み出す(人間が認識するように企てる)リズムや韻というのは、ベルクソンの核心にあるのではないか。
(2023 01/08)
第3章「創造的進化」
未完了相のアスペクト。生殖する時には、組織化された細胞をまた異化させる。
(2023 01/09)
ちょっと間が開いたけど、第3章続き。
ベルクソン自身の引用続く。
米田氏の冒頭にあったオルタナティブ・バイオケミストリーの先駆けとも言える発言。ベルクソンは生物種の違いを「覚醒と微睡」と捉えていて、例えば植物が動かないのは、動くという要素が微睡んでいるだけ、と説く。この考え方を無生物の物質にも拡張していく(のはベルクソンではなく米田氏の方なのか?)。
ここから藤田氏。またもベルクソン「創造的進化」からの引用。
藤田氏はこうしたところから、ベルクソンのイメージを一言で「螺旋」という言葉で現そうとしている。前進と足踏みは、「時間と自由」の時に出た効力と功利性にそれぞれ対応している。
また生き物がそれ自身とそれが生み出した道具・技術を全体として考えた稀な哲学者である、とベルクソンを評したカンギレム。これは「延長された表現型」(ビーバーの個体とビーバーが作ったダム、双方に共通するのはビーバーの遺伝子の顕示である)のリチャード・ドーキンスに受け継がれている。そういえば、先程のp142の文の最後の文章はドーキンスそのものではないか。
ここに藤田氏はデリダの「脱構築」を見ている。
ベルクソンの目的論(目的論ではない目的論)の箇所。この文章かなり重要だと思うのだけれど、実は岩波文庫版では載っているのに、ちくま学芸文庫版ではこの一文が抜け落ちているという。なんとなくベルクソン買うなら、四冊揃っているしちくま学芸文庫で買おうかな、と思っていたところなので、ここは注意しないと。ちなみに目的というか進化において生命が必然的にしていることは2点ある、とベルクソンは言っている。
ベルクソンの「目的」「必然」そして「人間中心主義」の核には自由を確保しようとする思想がある。
ベルクソンが(非)有機的とその狭間の領域をいうところを、ドゥルーズは有機的と括弧を取って有機的なものを排除しようとする。シモンドン(技術の哲学?)も同じ傾向にあるという。ただドゥルーズの場合は「千のプラトー」においては「コード化」と「脱コード化」はセットであると修正していて、有機的なものも取り込もうとしている。
米田氏の言葉。自由というのが何なのか、ますますわからなくなってきた。
(2023 01/15)
第4章「道徳と宗教の二源泉」
この本は1932年出版。1859年生まれのベルクソンは73歳。この5年後には遺言書を作成し、ユダヤ人迫害に苦しむ人とともにユダヤ教徒に留まることを明言。アクチュアリティーもある書物になっている。
というわけで本題。まず平賀裕貴氏から。
この本は神秘家が引かれる。神秘家の神秘体験を見ていく(ここでブックガイドのブリュノ・クレマン「垂直の声:プロソポペイア試論」が関連する)。そうした神秘家の一人「十字架の聖ヨハネ」は自身の神秘体験を「暗夜」と呼ぶ。その「暗夜」を「二源泉」ではどう描いているのか。
ここでの「機械」は、複雑な機構を持って最終的に単純(と思われる)な結果を出すもの。機械が抱く欠如の感情…とか、組み立て途中の機械の意識はどのくらい組み立てられているのか…とか(それだけでご飯3杯いけるくらい)魅力的なのだけれど、でも、神秘体験と何の関係があるのかな。ちょっと考えてみたけれど、普段は普通に生活している人間が、「暗夜」に神秘体験を経験した場合、もう普通の生活に戻れずどちらにも振り切れない、というところだろうか。
続いては、ゼノンの矢のパラドックスと神秘家について。ゼノンのパラドックスは、矢の飛ぶ軌道は無限に分割できるから矢はいつまでたっても目的地に着かないというもの。それは事を起こそうとする人間もまた同じ立ち位置。
「さらに遠くを眺めつつ」というところが重要なのではないか、と思う。先への視線があれば、矢の目的地はそこへの通過点と認識できる。
藤田尚志氏パートへ移る。
誰かの呼びかけに応え、憧れを持つ。そして「ああいうふうに自分もなりたい」と行動する。
人と人が出会うのは、その時だけの動きかと思うけれど、実は前からその出会いを作り出そうと準備をしている。ただ本人はそのことに気づいていない…ということだろうか。
昨晩はここまで。
そして今日、藤田パート続き。
「目には目を、歯には歯を」の「中庸」な「測定可能」な道徳に対し、「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」という道徳は、調和の取れない測定不能な道徳。ベルクソンは「中庸」のままで行けばよかったのかもしれないが、「度を超して進んでいく」ことなしには進めなかったのではないか、という(二重狂乱の法則)。そしてその結果できてしまった「法外」な機械的身体、産業社会について。
こうしてみるとベルクソンは「調和」「測定可能なこと」について拒否しているように見えるけれど、ドゥルーズ辺り(「過激」)と違って、ベルクソンは「過剰」計算を過剰なほどにしてしまう人だ、と藤田氏は言う。
(2023 01/23)
昨夜と今夜で第4章読み終わり。
創話(仮構作用)…物語を生み出す機能。これをベルクソンは、開かれた社会と閉じた社会の区別で言えば、閉じた社会に属するという…のがかなり意外。確かに社会の維持機能としての物語という側面もあるけれど。ただ、開かれた社会、動的宗教が普及するためには、創話機能の「イメージとシンボル」が必要になってくる、と一言だけ述べている、とのこと。
「笑い」と「二源泉」
岩波文庫版「笑い」の訳者、林達夫は「改版へのあとがき」でこう述べている、という。
ここは「今日のトーテミスム」の方に是非当たってみよう(下の補足参照)。
最後は「ひとまずのまとめ」から平賀氏の言葉。
藤田氏の「反時代的」というのもそのような意味。
残るは第5章の五人の対談のみ。
(2023 01/25)
第5章の5人の討論
ニュー・マテリアル・フェミニズムとかエピジェネティックスとか全く未知の言葉が続く。分析哲学を充分踏まえた上でのベルクソン読解、ハイデガー、アドルノ、アーレントとベルクソン(ややベルクソンを浅く処理しているように見えても、まだそこには研究の余地あり)、そしてベンヤミンとの関わりでは、閉じたものと開かれたものという対比が、ベンヤミン「暴力論」での神話的暴力と神的暴力との対比と重なるところ。
日本の研究者が海外に向けて論文等を発表し、その作業を(中身はともかく数量的に)把握していくことも大事だ、という。
(2023 01/27)
補足:レヴィ=ストロース「今日のトーテミスム」該当箇所?
たぶんこの辺り…
(ちなみに章名は、このみすずライブラリー版では「心の中のトーテミスム」)
まずはアメリカのシウー・インディアンの一賢人?の思想。
続けて、ベルクソンの「二源泉」。
確かに似てる…ベルクソンの方はそのまま読むと「中止」であることが残念そうに書いてあるようにも見えるが、それは現在の世界が完成形であると考える人々(西欧キリスト教の価値観?)の立場に寄り添った表現になっている、にすぎない。
さて、レヴィ=ストロースが考える「親近性」とは…
この努力こそがトーテミスムなのだ、という運び。また、そこにラドクリフ=ブラウンも加わるという。トーテミスム、野生の思考、それにここに出てくるデュルケームやルソーについては、また「今日のトーテミスム」読んだ時にね(いつだよ)…
(2023 01/26)
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