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「ヴァイゼル・ダヴィデク」 パヴェウ・ヒュレ

井上暁子 訳  松籟社 東欧の想像力

ポーランド、グダニスク近郊生まれ。とある少年の事件とその記憶。

生まれもあってかグラスの作品と呼応しているようで、この作品は「猫と鼠」と対応しているという。

彼の他の作品、「メルセデス・ベンツ-フラバルへの手紙」はフラバルの文体の模倣があり、「カストルプ」は「魔の山」のハンス・カストルプがグダンスク工科大学で過ごした半年間の物語…だという。

歴史と物語の交錯



 シメクとピョートルが両脇に、僕は真ん中に立っていた。長時間にわたる直立不動のせいで僕の足はむくみ、痛んだ。ほかのふたりは視線を左右に向けて一息つくことができたが、僕には校長の視線と、彼の頭上の黒い額縁の中の白い鷲以外、目のやり場はなかった。時おり僕は、鷲が片方の翼を動かし戸外へ飛び立とうとするのを見たような気がして、鳥が飛び去るときのガラスの割れる音が僕たちみんなの耳に聞こえるのを待ったが、そんなことは一切起こらなかった。期待した飛翔の代わりに、質問や脅しや懇願がますます頻繁に降ってきて、僕たちはそのまま立ち続けた。完全に無実の罪で、このすべてはどのように終わるのだろうかと怯えながら。すべてには終わりというものがある。校長室のかすかに開いた窓を通して僕たちの耳にその残響をもたらす、夏のように。
(p10)

ヴァイゼル・ダヴィデクなる少年(と女友達?)の爆薬による失踪…その後残された子供達への尋問。鷲はポーランドの国章。
(2021 04/25)


 もし答えがあるとすれば、僕があらゆることに確信が持てないまま、このページの行を埋めているということこそが、その答えだ。(p19)


 彼が自分の世紀の大事業に不可欠な動物層の標本として、僕たちを捕まえない保証はなかった。学校や五月一日宣言以外の場所で、僕たちは彼にとって、間違いなく、とくに厄介な昆虫の一種に違いなかったし、それは彼の冷ややかで空虚なまなざしから感じ取ることができた。
(p25)


ここまで読んできて、今のところ宗教行事やメーデーに距離を置いているダヴィデク自身より、ここの「彼」、生物の先生Mスキの方がとっても気になる。Mスキはメーデー行進に出席しなかったダヴィデクに対し、例の「家庭訪問」をしなかった。それはなぜか。


 今僕がしているのは決して本の執筆なんかではなく、ただ空白を埋めること、つまり、穴を行で埋めることなのだから-最終降伏の合図として。
(p26)


結構、こういう語りが多く入ってくる、これが、あとがきにある「ノスタルジーがみだりに侵入してくるのを推しとどめようとする側面」なのか。あと、戦争ごっこで(本物の)ドイツ兵のヘルメットとか何かの古びた銃とか出てくるのだけど、第二次世界大戦勃発の地であるグダニスク近郊で、しかも十年少ししか経過していないのに・・・それでもそうした思惑などから子供は自由なのだろう。
(2021 10/11)

今日読んだところは、ダヴィデクが動物園の豹の前に立って豹を後退りさせた話と、その翌日ダヴィデクとエルカについていろいろ散策?した話。その中には有名なグダニスク郵便局(「ブリキの太鼓」でも出てくる第二次世界大戦激戦地)もある。
ダヴィデクに関する過去も、後の書き手の調査含めだんだん明らかになる。ダヴィデクの祖父、仕立て屋でダヴィデクが行方不明になってすぐに亡くなったアブラハムは、ブロディ(リヴォフの近く、現ウクライナ)で生まれたユダヤ人。彼が第二次世界大戦直後、ポーランドに来て(ポーランドの領土西方移動)「ポーランド人」ダヴィデクを自分の孫として届出ている。その書類のダヴィデクにとっての父母の欄は「父」「母」に二重線が引かれて消されている。書き手がダヴィデク達と一緒に回った(元)富豪の家も含めて、歴史と物語が交錯し始めた。
(2021 10/13)


匂いの小説



 僕はうなずいた。ニンニクの匂いがますます強くなって、僕はキュウリのピクルスが食べたくなった。
(p107)


まだまだ続く校長と軍曹とMスキの尋問。そんな中、軍曹から匂うピクルスの匂いの言及がところどころに入る。
控室にあった真鍮の円盤の壁時計を蝶番にして、語りはマンハイムに住むエルカのところへ行った話に移る(壁時計はほんとに同じものだったのか?)。これまで語り手がマンハイムに送った手紙は全て無視されていた。今回は、エルカは語り手ヘレル(著者ヒュレのアナグラム)の訪問を受け入れたが、ヴァイゼルの謎を問うヘレルに対し、エルカは一枚「上手」だった。


 僕はそれに向かって轟音をあげ、身震いしながら接近した。今回は銀色の機体は滑走路のコンクリートではなく、質量と速度を掛け合わせた衝撃度で、音をたてて風をきりながら、藪に、彼女の無垢で柔らかなものの上に着陸した。
(p122)


その時も、匂いと香りへの言及は忘れない。


 しかし恐怖と幻覚が競合していた。なぜなら聞こえてきた唯一の声は、僕ではない誰かの名前をささやくエルカの声であり、鼻をつく唯一の香りは、彼女の体から漂う風と塩とアーモンドクリームの混じり合った香りだったからだ。僕は穢れ、敗北して、彼女の元を去った。
(p122)


(2021 10/16)


 目新しさへの渇望は、死ぬほど退屈しきった僕たちの魂を焦がした。僕たちは突然理解したのだった。僕たちにそれを与えることができるのはヴァイゼルただ一人であることを。
(p141)


グラスの「猫と鼠」のマールケと同様に、ヴァイゼルも周りの子供達に崇拝されている。そしてある時、姿を消す。
p151から152にかけてのヴァイゼルが機関車の運転手になって墓地の骸骨たちを載せる、という空想物語には、周りで子供が聞いていた、大人の噂話などが半ば無意識的に織り込まれている。
(2021 10/20)

「ヴァイゼル・ダヴィデクとは何者なのか」2つのポイント



ユダヤ人孤児らしいけど、彼が空中浮遊!している時にシメクが感じたように、彼は周りの皆を催眠にかけていたのかもしれない。とすれば、こういう全体的催眠は現代も様々な社会で行われていることでもある。
過去を再構成する2つの時点。ヘレルら3人が学校に残って取り調べを受けている時点と、その後のヘレルがヴァイゼルについての本を書いている現時点。この2つをわざと併置させて見せているわけなのだが、その生み出す効果がまだ自分にはつかめていない。
(2021 10/21)

ヴァイゼルが空中浮遊したりダンスをしてたりするのを見ていた時から、語り手ヘレルたち3人は宣誓までしてヴァイゼルのレンガ工場跡の秘密基地に入ることになった。本を書いている今のヘレルは、そこで本物のピストルやヒトラーの切手を見せてもらったことを、「彼がそういうやり方で自分の本当の活動を偽装していた」のだと思う(p205)。その活動とは何か、見当はつかないし、実際そんなものはないのかもしれない。この小説、中心人物はヴァイゼルなのかと思っていたが、実は3人の少年側の方がそれなのかも知れない。
そんな一人ピョートルに語り手ヘレルは会話を試みる。ピョートルは既に死んでいて、墓場でヴァイゼルに関する会話をしている。


 「死後の世界の人間に関わりのあることは多くない」
(p208)


 それは僕がした、いや試みた、ヴァイゼルについての最後の会話だった。のちに僕は、すべてを明らかにするには他の方法がないと知り、書き始めたのだ。
(p209)


(2021 10/23)

トンネルに消えたヴァイゼル



 彼女が僕たち三人の母親を代表してそう言ったのは明らかだったので、僕たちは従うしかなかった。そう、当時は-今も存在するが-母親たちの国際連盟のようなものがあったのだ。ちょうど給料日に飲んだくれる父親たちの国際連盟があったように。
(p223)


酒場(ビールしかないので、皆ウォッカをこっそりビールに混ぜる)での飲んだくれ同士のたあいもない喧嘩、その直後なので異様に笑える箇所。
取り調べの時点では、その前にヘレルたちが見た、Mスキのマゾっけぶりをちらつかせて、なんとかMスキの体罰を逃れることができた。


 僕が、生まれて初めての、涙が入り混じった吐き気をもよおす恐喝の味をかみしめながら秘書室へ入っていくと、用務員が椅子から勢いよく立ち上がった。
(p262)


…「ヴァイゼル・ダヴィデク」と銘打っているけど、実はヴァイゼルについての小説ではないのかも。ヴァイゼルに振り回された、語り手ヘレルやMスキなどの物語ではないのか。エルカのミュンヘンの家で偶然見たMスキのテレビインタビュー、それに対するヘレルの反応とか見るとそう思う。

ヴァイゼルは、学校や軍曹たちの取り調べている爆発があった日の次の日、水の溜まったトンネルの入口を炸薬で堰き止めようという流れの中で、エルカとともにトンネルの中へ入っていき(それほど長いトンネルではない)、そしてトンネルから出てこなかった(エルカは後日、記憶を失って発見される)。このトンネルとは、時間の何かの比喩であろうか。


 その時たしかに海のある北の方角から、その年初めての、一吹きの爽やかな風が吹き抜けた。森が終わり集落にさしかかる辺りで、僕はぶどうの粒ほどの大きくて重い雨の粒が降ってくるのを感じた。それらは地面に落ちるとすぐに浸み込んだが、続けて次の粒が速度を増しながらどんどん落ちてきて、通り、町、いや全世界が、あっという間に炊きのような灰色の雨に沈んだ。
(p327-328)


そういえば、この小説の始まりは、夏休みが始まる頃の、干魃と浜辺での魚の大量死だった。何かが閉じられる。次々落ちてくる雨粒は、語り手がつきとめたかった記憶の空白の時期、それらが終わる日常の連続する記憶なのだろう。
最後に、ピョートルの墓の前に立ち、語り手は彼に問いかける。


 君は思うだろう。君がその目で見てその手で触れるものすべては、もうとっくに塵となって飛散してしまったのだと。
(p335)

解説から



 本小説は、個人が呼び覚ますことのできる記憶の限界を見定めつつ、自身の記憶の海から湧き上がる豊かなイメージを、個人の感覚や認識の向こうへ解き放ち、いまだ語られていない無数の物語の存在を予感させる。
(p337-338)


謎は謎のまま放置され、いったい「ヴァイゼル・ダヴィデク」(この小説自身)はなんだったのか、という問いの答えに一番近いのがこの文章かもしれない。
(2021 10/24)

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