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死ぬということ。

わたしはいつからか覚えていないほどずっと、漠然と死にたいと思っている。

何も特別なことだとは思っていないし、実行しようと思う日々もない。

多分わたしの人生には人並みに、うれしいことや楽しいことも、苦しいことや悲しいこともある。その中で、わたしは後者の受け止めの方が強く感じてしまうというだけなのだ。

でも誰も悲しんでほしくないので、死にたいというより消えたい、とわたしはずっと唱えている。消えて、わたしがいたことも人類の記憶からなくして、わたしの存在すらなかったことにして、誰も悲しまずに日常が続いてほしい。

しかし、消えることが現在の地球でできないことくらい、わたしだってわかっている。

だからそのまま生きている。


そんな日々がずっと続いていた中、わたしは親戚の死に直面した。

ほとんどあったことがない、関わりのないおばさんだ。

おばさんは子供はおらず、兄弟ともあまり連絡を取ることもなく、1人、東京に住んでいた。

なので、近所の人が発見してくれるまでにも数ヶ月かかり、顔や死因が分からないほど腐敗が進んでいた。

家族はみんな仕事が忙しいとか、遠いとかで、東京にいるわたしがその手続きを担うこととなった。

今までわたしは、死ぬ、ということはすべてを終わらせられる魔法ぐらいの気持ちだった。

周りの人は悲しむけど、これからは迷惑はかけないし、スパンと終われるものであると思っていた。

しかし、現実は違った。

亡くなった後の手続きは驚くほど多く、お金もすごくかかる。人が亡くなっているのに、大変とかお金の話とか不謹慎に思うかもしれないが、それが現実だ。

私はあまり関わりがない親戚だったので、手続きを手続きとして、分からないなりにも淡々と進めることができた。だが、もし大切な人が、身近な人が亡くなった時は、悲しみの中、作業は作業として進めなければならない。その苦しさは、なんとも表せないだろう。

私にはまだ到底想像することができない。

もし自殺となれば、そこに疑念や苦しさやもっと様々なものが加わる。その重荷を、深い苦しみを、身近な人に預けては飛べないことを、私は実感してしまった。


ここまで書くと、死ぬことは周りに迷惑をかけるからそれもだめ、みたいに見えてきて私自身のくびを絞めてしまう感じがする。

しかし、命というのは自分のためにあるし、わたしはそんなことを記録したい訳ではない。

シンプルに私が感じた、私がしたかった消えることと死ぬことは全く違うということ、亡くなった人が残したものが、生きていたことを鮮明に物語ること、周りの人の中ではしっかりと生きているということ、など、手続きという作業の中で無意識に入り込んだ生きるということ、を書き残しておきたかった。

どちらかと言えば私は、生きる自由があるのだから、死ぬ自由もある、という意見に賛成だ。ただの私の意見だ。こういうものにどちらが正しいというものは無いと思う。ただ、私は賛成だ。

それでも、書きたかったことは、死ぬ、ということは消えることとは違う、たしかに生きていたものが亡くなるということ、その人のものや形跡は全部あるのに、その人だけがいないということ。その重さだ。

つらくてつらくて苦しいとき、ゲームをブチっと切るような感覚で、全部終わればいいのにと思う。死にたいと思う。

しかし、全部が勝手に終わってくれる訳ではない。自分を大切に思ってくれる人が、悲しみの中丁寧に終わらせてくれるのだ。

そして、その人の中では終わりではない。いつまでもその人の中で生き続けるのだ。会えることはないのに。


その重さを、考えて丁寧に生きていきたい。




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