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ヴァナキュラーとヴァルネラビリティー vernacular and valnerability

再現的イリュージョンの否定——。美術評論家の中原佑介は、20世紀のヨーロッパ絵画の特徴を、このように要約した 。「ルネサンス以降のヨーロッパ絵画は、眼で見える世界の再現というイリュージョンによって成立してきた」が、これに代わるイリュージョンを探究することが現代絵画の要諦である。中原によれば、絵画とは物質的ないしは技術的には「彩色された平面」だが、再現的イリュージョンはその事実を隠蔽する反面、今日の絵画は逆にそれを露呈する。その物質的な条件を露わにしながら、同時に、その物質性を超克するという矛盾に、中原は現代絵画の本質を見出していたわけだ。

注目したいのは、中原が再現的なイリュージョンの否定の完成として、ルチオ・フォンタナの名前を挙げている点である。いわく、キャンバスに穴を穿ったり切り裂いたりしたフォンタナの作品は、絵画という形式と酷似した彫刻であり、だからこそ絵画のイリュージョニズムから抜け出ることができたのである。すでに多くの論者が指摘しているように、フォンタナの作品の醍醐味は「絵画」と「彫刻」という既成のジャンルには回収し得ない、双方のあいだのいわば「真空地帯」(瀧口修造)にあるのであり、彼が理論的支柱とした「空間概念」は、まさしくそのような新たな第三項として構想されていたのだった。そこに描く行為の純粋性を見出すにせよ(東野芳明)、それをイタリアの風土に根づいたバロック的なるものの系譜に位置づけるにせよ(山口勝弘)、フォンタナは再現的イリュージョンを否定する現代絵画の極北として高く評価されているのである。

フォンタナの話からはじめたのは、ほかでもない。浜田浄の作品はフォンタナのそれとあらゆる局面で通底しているように思われるからだ。表面を削り出す浜田の作品は、形式的には「絵画」でありながら、技法的には限りなく「彫刻」に近い。その表面に残されたおびただしい痕跡が何かしらの傷跡に見えるという点も似通っている。

むろん浜田の作品の大きな特徴である身体性はフォンタナの作品にはさほど強く見受けられない。前者の痕跡は作者のストイックな身体行為を如実に物語っている反面、後者のそれはひじょうにミニマムな手わざしか連想させないからだ。とはいえ、単色の地に走る鋭利な傷跡が、まるで皮膚を引き裂いた「裂傷」に見えるという点でいえば、フォンタナの作品にも強い身体性が醸し出されていると言えなくもない。浜田が完成した画面から身体行為の反復を遡行的に想像させているとしたら、フォンタナは線状の裂傷によって画面全体に身体のイメージを投影しているのである。

しかし浜田にあってフォンタナにない特徴がある。それは、いずれも私たちの想像力を平面に向けて発動させる点では共通しているが、その行き先が明確に異なるという点である。

フォンタナの裂傷は私たちの視線を平面の「奥」に誘う。切り裂かれた平面の暗闇は文字どおり絵画でも彫刻でもない新たな空間だが、私たちの視線はその暗闇の奥であてどなく彷徨うほかない。やや大げさに言い換えれば、平面の奥に無限の宇宙が広がっているかのように錯覚するのだ。

それにたいして浜田の痕跡は私たちの視線を平面の「中」に導く。ここでいう平面の「中」とは、むろんレトリックにすぎない。だが平面の表層をわずかに積み上げる一方、その微細な厚みをていねいに削り出すという浜田の手法に思いを巡らすならば、その修辞法をたんなる言葉の綾として切り捨てることはできなくなるだろう。

浜田の作品を前にした私たちの視線は、表面に微細な凹凸があるがゆえに、大半の絵画のように平面上を滑らかに移動することは難しい。むしろ無数の凹凸に視線の水平運動が遮られ、その厚みの内側に分け入ることを余儀なくされる。視線がひとつひとつの穴に落ちるたびに、見えるはずのない平面の内側を見ていると言ってもいい。

浜田の作品の真骨頂を平面の「中」に置くのは、もうひとつ理由がある。それは浜田の作品がつねに重力や圧力を感じさせるからだ。むろん掘削という行為が残した圧力はあるにはある。けれども、それ以上に重要なのは、浜田による切削が支持体を突き抜けることなく地を剥き出しにしている点である。もし貫通していれば、フォンタナのように無重力空間を幻視させていたのかもしれない。だが浜田は支持体の生々しい物質性をあえて露呈させることで、その圧力を逆説的に浮き彫りにしているのだ。

「奥」に突き抜けるのではなく、「中」に留まること。言い換えれば、いかなる外部にも脱出することなく、その不可能性を内部で抱えること。かつてフォンタナは、「空間主義宣言」において、新しい美学の重要性を強調するために既成の美学を重力のメタファーで語った 。「地球、水平線からの離脱」にこそ新しい美学の可能性は賭けられるべきである、と。この言い方を踏まえるならば、浜田の美学は、むしろ重力の圏内で、水平線の上で練り上げられているといえるだろう。だからこそ浜田の作品には、たとえそれが再現的イリュージョンを明確に否定しているとしても、風土の気配をたしかに感じ取れるのである。フォンタナの楽天主義を享受できる時代が過ぎた今、私たちに必要なのは、そのような身体的かつ風土的なイリュージョンにほかならない。

初出:「浜田浄」個展、ギャラリー川船、2017年

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