マーケティングに行動科学を取り入れたら、がん検診に行く人が3倍増えた話
チラシを変えただけで受診者が1人から130人に
14年前、私は「予防医療のマーケティング会社」を創業しました。
前回のnoteでもお伝えしましたが、まず取り組んだのが「乳がん検診の受診率を上げるプロジェクト」でした。
私たちは自治体が作成しているチラシを見直すことから始めました。
杉並区の乳がん検診のチラシは、もともとこんなデザインでした。
失礼ながら、情報が多すぎて何が言いたいのかわかりづらいものでした。
このチラシのコピーとデザインを、このように変えたのです。
やったことは大したことではありません。
メッセージを絞り、メリハリをつけ、情報量を大幅にカットしただけ。
ただ、結果は明らかでした。約1500人中「1人」だった受診者が「130人」に増えたのです。
1400人に無視されて悔しかった
受診者が130人に増えた。
それはたしかによかったのですが、私が抱いたのは「悔しい」という思いでした。残りの約1400人には無視されたからです。
どうすれば動かなかった1400人に動いてもらえるのだろうか?
私はまず「セグメンテーション」から始めることにしました。セグメンテーションとはマーケターがよくやる手法で、市場にいる人たちを「属性ごとにグループ分け」することです。
全員に同じチラシを送るのではなく、属性に分けてそれぞれに合ったチラシを送れば受診率が上がるはずだ、と考えたのです。
P&G時代、私が最後にやっていた仕事が化粧品のマーケティングでした。そのときと同じように「好きな雑誌はなんですか?」「好きなブランドはなんですか?」「健康に関する情報源はなんですか?」というぐあいにインターネットを使ってアンケート調査をしました。
その結果、「やりくりさん」「華やかさん」「無気力さん」などのセグメントが見えてきました。たとえば、健康情報をテレビから情報を得ているのは「華やかさん」、市町村の広報をちゃんと見ているような人は「やりくりさん」というぐあいです。
約3千人からアンケートの回答を得て、詳細にデータを分析し、セグメンテーションを進めていきました。マーケティングの力によってこれまで順調に受診率を伸ばし続けていたこともあり、私は自信満々でした。
しかしーー。
結論から言うと、うまくいきませんでした。
セグメントごとにチラシのデザインやコピーを変えて送り分けてみたのですが、あとで調査をしてみると受診率にほとんど違いが出なかった。人には「ファッションの志向」とか「ライフスタイルの違い」はあっても、それと受診率とは大して相関がないということがわかったのです。
かなり力を入れたマーケティングが、空振りに終わった。私は次の一手が見つからず、途方に暮れていました。
人の行動は科学で説明できる
そんなとき、ある人が声をかけてきました。
「マーケティングをやるなら、もう少し科学的にやったほうがいいんじゃないですか?」
大阪大学の平井啓(ひらいけい)先生でした。
当時私たちは、国立がんセンターの研究グループと一緒に活動しており、平井先生はそのなかにいらっしゃいました。
先生は言いました。
「セグメンテーションを考える前に『なぜ人が行動するのか?』をきちんと把握する必要がありそうですね。福吉さんは『行動科学』という学問を知っていますか? 行動科学のフレームワークを使えば、人が行動する理由がわかるはずですよ」。
当時、私は「行動科学」というものをまったく知りませんでした。人の行動が「科学」で説明できる……。マーケティングを「感覚」でやってきた私にとって大きな発見でした。
人はどうすれば検診を受けるのか?
先生から「今回はこれが使えそうだから」ということで最初に教えてもらったフレームワークが「ヘルスビリーフモデル」です。
人が健康のためのアクションを起こすまでのプロセスを説明するものでした。
そんなに難しいものではないので、ちょっと説明します。
まず中央列のいちばん上に「Perceived Susceptibility」とありますよね。直訳すれば「(病気の)かかりやすさ」です。
2つめの「Perceived Severity」は「(かかったときの)重大性」です。この2つが揃うと予防のアクションにつながる、ということを示しています。
「Perceived」というのは直訳すれば「認識されている」という意味です。
よって「Perceived Susceptibility」「Perceived Severity」というのは、事実としての「かかりやすさ」「重大性」ではなく、「かかりやすいと思っている」「重大性があると思っている」という認識の問題です。
まあ、ざっくり言えば「大変なことになるぞ、と思っている人は予防のアクションを起こす」ということですね。
「利益」が「障壁」を上回れば、人は動く
下段を見ると「Perceived Benefit」とあります。これは「(予防のアクションをとることによる)利益」です。たとえば「ワクチンを打てば予防できる」という状況は「利益がある」と言えますよね。
その下の「Perceived Barrier」は「(予防のアクションを妨げる)障壁」のこと。「ワクチンを打つのが怖い」「検診に行ったら病気が発覚するかもしれないから怖い」といったことは障壁になります。
ここからは「利益が障壁を上回れば、予防のアクションにつながる」ということがわかります。
左の列の「Demographic variables」は年齢や性別などの「社会的な特性」のことです。
年齢や性別によっても行動は変わりますよね、という話です。特にいま、若い女性だと「妊娠に影響があるんじゃないか」ということでワクチンを躊躇する人もいます。ここは社会的な特性に左右されます。
右下には「Cues to Action」とあります。
Cueは「合図」とか「きっかけ」という意味です。たとえば「検診の案内」は Cue になります。案内がくると「検診受けようかな?」と思うきっかけになります。
このモデルからわかるのは、主にこの3つです。
・「かかりやすく重大な病気」であれば、アクションをとる人がいる
・利益が障壁を上回れば、アクションをとる人がいる
・きっかけがあれば、アクションをとる人がいる
ということは、これを裏返せば「検診に行かなかった人」のパターンも見えてきます。
つまり、
・「かかりやすく重大な病気」だと思っていない
・利益よりも障壁が上回っている
・きっかけがない
「この3パターンを覆すことができれば検診に行ってくれるはずだ」ということがわかってきたのです。
1400人を3つの層に分けた
私たちは並行して、アンケートやインタビューも進めていました。そして、以下の3つの層に「セグメンテーション」しました。
1)無関心者
これは「かかりやすく重大な病気」だと思っていない人です。
インタビューをやっていると楽観的な人に遭遇します。「私、乳がんなんてかからないし」と言う人です。乳がんは女性の20人に1人が一生のあいだに1回かかると言われています。「20人に1人」と言われたときに「じゃあ私は大丈夫だ」と思うのがこの層。「その話を聞いてむしろ安心しました」と言う人もいたりします。
「乳がんは自分には関係ない」「検診にも関心がない」。そういった人たちを「無関心者」としました。
2)関心者
2つめのグループは、関心はあるけれど怖くて行けない層です。彼女たちは、恐怖という障壁が高すぎて利益よりも障壁が上回ってしまっています。
「20人に1人が一生のうちでがんになりますよ」と伝えたとき、「学校のクラスに2人くらいいるってことだからヤバいかも」「私、体が弱いから危ないかも」と考える人たちもいます。
彼女たちは「関心はあるけれど、検診に行ったらがんが発覚するかもしれない。怖いからちょっと様子を見たい」と考えます。
がんは怖いし、関心はある。でも、不安で検診に行けない層。このグループを「関心者」としました。
3)意図者
3つめのグループは「きっかけ」がなくて、受けていない人です。受ける意志はあるけれど、申し込みの仕方がわからない層。
彼女たちは「検診を受けたい」と思っています。ただ、どうやって受ければいいのかわからないのです。
彼女たちは「きっかけ」があれば受ける人たちなので「意図者」としました。
層に合わせた3つのパンフレットを作成
無関心者、関心者、意図者。行動科学にもとづいたセグメンテーションを行なったことで、3つの層が見えてきました。
私たちはそれぞれの人たちに対して、異なるパンフレットを制作しました。
まず「無関心者」に対して作ったのは、こんなパンフレットです。
パンフレットのコピーを考えるときも、「ヘルスビリーフモデル」が生きました。
無関心者には「かかりやすさ」の認識を上げてもらわなければいけません。そこで「2人に1人が一生のうちでがんになります」といったメッセージを伝えました。
そして「重大性」の認識を上げるため、メインのメッセージは「乳がんは40代女性のがん死亡率、第一位。」としました。
当初、色はピンクだったのですが「あんまり怖くないよね」ということになりダークブルーにしてシリアスさを出しました。サイズもA4サイズほどと少し大きめにしました。
「関心者」に向けては、こんなパンフレットを作りました。
関心者は、必要以上に怖がってしまっている層です。よって「利益」を上げるか、「障壁」を下げる必要があります。
利益を上げるなら「検診を受けると助かりますよ」というメッセージ。障壁を下げるなら「検診を受けるのは簡単です」「痛くないです」というメッセージが効くでしょう。
そこでパンフレットを開くと「乳がんは早くみつけてしまえば治りますよ」というメッセージを入れました。
他にも「1センチのがんが2センチになるまでに実は2年くらいかかります。そのあいだに見つけておけば98パーセント治ります」といった情報もイラスト付きで説明しています。
また、「検査のときにどんな痛みがあるのか」も説明して、少しでも安心して受けられるように意識しました。パンフレットの色も明るく柔らかくしました。
最後は「意図者」です。
意図者は「Cue to Action」がうまく機能していないせいで、アクションを取らない人です。そういう人には「パンフレットが届く」ということが「じゃあ、受けようかな」という行動につながります。
また「どこで申し込めばいいのかわからない」というバリアをなくすためには、申し込みの仕方を目立たせることも効果的です。
そこでチラシを開けるとすぐに「申し込み方法はこうです」とわかるようにしました。さらに「いつ、どこに受けに行くのか」を書き込める予約メモもつけました。
サイズは小さめです。デザイナーが「バックに入る大きさ」を意識してくれました。
「受診率100%」を目指して
さて、行動科学にもとづいたセグメンテーションをしてパンフレットを作成して送り分けた結果どうなったか?
全員に同じものを送った場合の受診率が「5.8パーセント」だったのに対して「20パーセント」にまで上がりました。
つまり、3倍以上の人が検診に行ってくれたのです。
マーケティングに行動科学を取り入れたことで、有効なセグメンテーションができるようになり、検診に行く人をさらに増やすことができた。
マーケティングが「感覚」の域から「再現可能なプロセス」に変わったことは、会社にとっても大きな一歩となりました。
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その後も10年以上、試行錯誤は続いています。
セグメンテーションのために毎回アンケートを取るのは、お金も手間もかかります。そこで健康診断の問診票を使うことにしました。これならすでに自治体にデータがありますし、アンケートをとらなくてもセグメンテーションできます。
ただこれだと「かつて健康診断を受けたことがある人」の情報しかわかりません。そこで、ここ3年くらいは「レセプトデータ」を使っています。レセプトデータというのは「病院で診療を受けたときの情報」のこと。病院でどんな検査をして、どんな病気で、どういう薬を飲んでいるのか? そういったデータが自治体にたまっているのです。
この膨大な量のレセプトデータを解析するため、優秀なデータサイエンティストも採用しました。技術の進歩とともに、創業当時にはできなかったことがどんどんできるようになっているのです。
P&Gのマーケターとして商品を売っていたときは「ターゲットの人」にさえ動いてもらえばOKでした。一方、健康診断やがん検診は究極的には日本国民100パーセントに受けてもらいたいと思っています。
一人でも多くの人が検診を受けて、健康でいられるよう、私たちは今後も活動を続けていきます。