本気でビジョンを実現しようとしたら、売上の8割が吹き飛んだ話
「すみません、この事業はできなくなりました」
私は各所に頭を下げてまわっていました。
これは、2016年のこと。
これまでやっていたメインの「研究事業」をやめたことで、2億円あった売上の8割が吹き飛びました。
メインの研究事業に携わり、研究をやりがいにしていた社員たちは辞めていきました。将来性を疑問視したいくつかの銀行からも「もうお金を貸せません」と言われてしまいました。
創業9年目にして、初めての赤字ーー。
当時の副社長は「もうつぶれたな」とまで思ったそうです。
なぜ私は、8割もの売上を占めていたメイン事業をやめる決断をしたのか? それは「創業時のビジョン」を本気で実現させたいと思ったからでした。
今回は、そのことについて語ってみたいと思います。
ビジョンの実現か、目の前の売上か?
属人性か、スケールか?
つねに経営につきまとう難しい問題です。
私がこれから語ることが、同じように迷っている方のヒントに少しでもなれば幸いです。
最初の事業は、がん検診のマーケティング
私たちの最初の事業は「マーケティングの力で、がん検診を受ける人を増やす」というものでした。
自治体が作成したチラシのデザインを見直したり、人びとを特性ごとに分けてパンフレットを送るなどして、検診に行く人を増やす事業です。
「がん検診に行く人を増やすことで、救える命を救いたい」。その思いが私たちを突き動かしていました。
特に立川市で行なったマーケティング施策では本格的に成果が出ました。そこで私たちは、その事例をまわりにも知ってもらおうと「論文化」することにしました。
それ以降は実績が出るたびに論文にして発表するようになりました。
マーケティングの力を使って、予防医療の問題を解決する。それを論文にして発表していると、ほどなくしていろんな大学の教授から「助けてよ」と声がかかるようになりました。
大学の偉い先生方がわざわざ会社に来てくださって「御社の力を借りたいんだ」と仰るわけです。私たちは「いや、もちろんです!」と言ってお手伝いしました。
当初は、がん検診に関する研究支援が中心でしたが、そのうちHIVに関するものやメンタルヘルスに関するもの、自殺を減らすプロジェクトなどにも携わるようにもなりました。
また「環境ホルモンが子どもの成長にどんな影響を与えるのか?」というG7各国で行われた本格的な研究を支援することもありました。
研究事業がメインになっていった
私たちの武器であるマーケティング。
その武器を使って、いろんな研究のお手伝いができる。これはやりがいのある、すごく楽しい仕事でした。
世の中のために仕事をしている研究者や教授たちに、ありがたいと思ってもらえるうえ、ビジネスにもなる。こんなに素晴らしいことはない。
気づけば会社も私自身も、公衆衛生や予防医療の領域でわりと知られるようになっていました。「日本公衆衛生学会」という、この分野で最大級の学会があります。そこで私ひとりだけが民間から講演の枠をもらえたこともありました。
公衆衛生の領域で存在感を示せている。私たちのノウハウが認められている。「私たちは意義のあることをやっているんだ」。
そう思っていました。
もちろん創業の事業である「検診のマーケティング事業」も続けてはいましたが、気づけば売上の大半を「研究への協力費」が占めるようになっていました。
なにげない友人のひとことにショックを受ける
転機が訪れたのは、2016年1月某日。
その日私は、ベンチャー系のイベントにモデレーターとして登壇していました。何社かのヘルスケア分野のベンチャー経営者と同じステージに上がり、スポットライトを浴びていました。
「こんなイベントに呼ばれるようになったか……」と私は感慨深い思いにふけっていました。
その日の夜、懇親会でのことです。
そこで久しぶりに昔の友人と会いました。松田悠介さん。ハーバード時代の同級生で、当時は「Teach for Japan」という教育系のNPOをやっていました。彼と「最近どう?」みたいに立ち話をしていたのです。
そのとき、どういう会話の流れだったのか忘れたのですが、彼がこんな言葉を発しました。
「社会を変えている会社と、社会を変えている"つもり"の会社は違うんだよね」
私はこれを聞いて「ん?」と思いました。
「社会を変えている会社」と「社会を変えているつもりの会社」……。
それはもちろん私に向けられた言葉ではありません。ただ、その言葉を聞いたときに、自分の会社に重ね合わせて考えてみると、ものすごく引っかかるものがあったのです。
私たちは本当に社会を「変えている」のだろうか?
社会を変えている「つもり」にはなっていないだろうか?
たしかに、いくつかの市では検診の受診率が上がりました。実績を論文にして発表しました。国際的な研究に参加できるようになりました。界隈では名前が知られるようにもなりました。
そうすることで、人の行動や社会を変えていく「素地」はつくっているよな。そう思っていました。
でも……
実際にそれが世の中に広がって「社会を変えていた」かというと、現実はそうなっていなかったのです。
冷静に考えて「キャンサースキャンのある日本」と「キャンサースキャンのない日本」を比較したとき何も変わっていないのではないか……。
そこに気づいて、私はすごくショックを受けたのです。
「なぜ創業したのか?」をあらためて考えた
懇親会の帰路、私は「なぜ創業したのか?」を思い返していました。
「日本人の死因のトップはがんです。でも、がん検診を受けて早期発見できれば、多くのがんは治るんです」。
創業の原点は、ハーバード留学中に出会ったこのセリフでした。
早期発見できれば、がんは治る病気である。でも現実は早期発見できずにいる。だから、がん検診を広めて救えるはずの命を救いたい。そのためにマーケティングの力を使うんだ。
それが原点にあった私たちの思いでした。
がんに関する研究は、ものすごく進んでいます。「こういった検診をやれば、このがんで死ぬ人はこれくらい減る」といったエビデンスも揃っている。それなのに、こんな重要なことを多くの人は知らない。
「こうすれば、がんで死ぬ人は減る」という「エビデンス」は揃っているのに、それが現場での「プラクティス(実践)」に至っていないのです。
この「エビデンスプラクティスギャップ」が埋まっていないことに対する課題感が創業の原点でした。
「ずいぶんと離れた場所に来てしまった」
なぜ、エビデンスプラクティスギャップが生まれてしまうのか?
そもそも研究者は「研究をして論文にすること」が仕事です。そして、出た成果を世界に広めるため、多くの研究者が英語で論文を書きます。
一方で、現場にいる自治体の保健師さんたちは、その論文の存在を知りません。英語で書かれた論文を読んでいるような時間はないのです。
こうして「エビデンス」と「プラクティス」のギャップが生まれます。せっかく新たな事実が発表されても、現場の人はそのことを知らないのです。
そういうなかで、私は「研究者と現場を橋渡しする存在」が必要だと考えました。そうしないと、せっかくの研究成果が誰にも知られず、活用されずに終わっていってしまうからです。
私はかつて、こう決意しました。
「私は幸運なことに英語も読めるし、論文を読み込む力もある。一方で、自治体の現場の人と一緒に受診率を上げていく事業もやっている。ならば、私たちが世界中の論文を読み解き、それを現場に持っていくことで『エビデンスプラクティスギャップ』を埋めよう」。
……にもかかわらず、です。
会社をつくって8年が経ち、気づいたら「エビデンス」を作って終わっている自分たちがいました。
現場にいる自治体の人たちは、私たちが書いた論文のことは知りません。私が「このあいだ英語で論文を出したんですよ」と現場で話しても「なんですか、それ?」と言われるのがオチでしょう。
ちゃんと「橋渡し」をしなきゃいけないのに、いつの間にか自分たちも研究をして終わっていたのです。
こんなことに気づくのに、なんで8年もかかったのだろう……。
研究をやっていると、論文の共著者に名前を入れてくれます。私は「研究仲間として認めてくれた」ということをうれしく思っていました。どんどん評価の高い論文に共著者で入れてもらえるようになるのは、すごく誇らしいことでした。
まわりから「すごいですね」と言われて、チヤホヤされて、いい気になっていたのかもしれません。
でも、ふと冷静に考えてみると、社会はほぼ変わっていなかった。
気づけば「マーケティングの力で社会を変えるんだ」という創業時の思いからはずいぶんと離れたところに来てしまっていたのです。
問いが生まれた瞬間、答えは決まった
さまざまな研究を支援するなかで「これで本当に社会に貢献できているだろうか?」という疑問を薄々は感じていました。
それでも、自治体の方や大学の先生たちから助けを求められて、うまく助けることができれば感謝してもらえるわけです。
やっていることに対する「社会的な意義」が疑問を打ち消していたのかもしれません。
売上は年間2億円くらいをずっとウロウロ。社員も十数人くらいで止まっていました。事業も組織も大きくなってはいませんでした。
そんななか「本当に社会を変えているのだろうか?」という問いに真正面からぶつかったのです。
そこで私は「研究事業をやめる」という決断をくだすことにしました。
葛藤がなかった、と言えばウソになります。
研究事業では、毎回新しいチームから新しいお題がもらえます。研究事業をやめると、そういうことはなくなってしまいます。
すると社内から「クリエイティビティ」みたいなものがなくなっていくかもしれない。新しいことにチャレンジしていく空気感がなくなってしまうかもしれない。そういう不安はありました。
それに、ずっと一緒に研究をやってきた先生方と会えなくなることもさみしいことですし、期待に沿えなくなるのも申し訳ない。
ただ「社会を変えているのか?」という問いに出会った瞬間に、もうその答えは私の中でハッキリと決まっていたと思います。
不安やさみしさはありましたが、でも、だからといって「じゃあ続けよう」とはなりませんでした。
「このまま行っても社会を変える会社にはなれない」とわかってしまった。ならば、一度血を流してでも「社会を変える会社」に舵を切らないといけない。
そこに思いが至った瞬間、迷いはスッと消えました。
このまま進んでもやりたいこととは違う未来が待っている。それはもう決まっている。「じゃあ、やめるしかない」と思ったのです。
まずは1000自治体を目指そう
研究事業をやめ、私たちは検診のマーケティング事業を本格的に全国に広げていくことにしました。
これまで私たちのサービスは都内にとどまっていました。
しかも導入してくれていたのは八王子とか世田谷とか、いくつかの先進的な自治体だけ。「先進的な自治体が取り入れているサービスですね」と言われているうちは世の中全体では何も変わりません。
検診のマーケティング事業に完全に舵を切ったことで、全国各地から契約を取ってくる日々が始まりました。
私たちはどこへでも飛んでいきました。
北は北海道から南は沖縄まで。利尻島まで船で行って講演をしてきたこともあります。
途中、「がん検診」に限らず、より自治体からニーズの高かった「特定健診」のマーケティングプランもラインナップに加えました。
それから約6年の月日が経ちました。
今、契約させていただいているのは650自治体。来年は750の自治体との契約を目指しています。
1000に到達すると、だいたい日本の9割くらいの人口をカバーすることができるので、私たちは「まずは1000自治体を目指そう!」と言っています。
「研究事業をやりながら」ではダメだったのか?
ここでひとつ、疑問が浮かぶかもしれません。
それは「なにも研究事業をやめなくてもよかったんじゃないか?」ということです。つまり「研究事業を温存しながら検診の事業を展開していけばいいんじゃないか?」と。
ただ私のなかには、その選択肢はありませんでした。
それは「会社のカルチャー」に大きく関わるからです。
研究事業は、シンクタンクやコンサルタントのようなことをやっていました。大学院の研究室の延長にある、学者の集まりのようなチームです。
一方で自治体向けのマーケティング事業は、営業部隊のようなチーム。「とにかく数をやってなんぼ」という空気感です。
事業によって仕事の仕方も違えば、「どんなことを考えていて、何を面白いと思うか」もぜんぜん違うチームが、同時に2つ存在している状態でした。
ともすると「どっちが上だ」「どっちが下だ」といった話になりがちでした。研究事業は、大学の教授クラスとレベルの高い話をするような仕事です。一方、検診事業は地道な営業がメイン。
よって、さすがに誰も口にはしませんでしたが「研究事業のほうが自治体の事業よりも一段上の仕事」という感じだったのです。「自治体の仕事は若いみんなにがんばってもらおう」という空気がありました。
もし研究事業を残したまま自治体向けの事業にシフトしていこうとしてもうまくいかなかったでしょう。研究事業のメンバーに「自治体向けの部署に移ってくれないか」と言っても「いや、それなら辞めますよ」となってしまうはずです。
そこで私は大きくカルチャーの異なる2つの事業を同時並行で進めていくのは難しいと判断したのです。両立はできたかもしれませんが、おそらく中途半端になっていたと思います。
どんな事業をやるかによって、会社に集まってくる人は大きく変わります。やはりきっぱりと「研究事業をやめた」ことが功を奏したのだと思います。
もちろん「研究事業に意味がなかった」と言いたいわけではありません。いま全国に広めているサービスは、当時英語で書いていた論文の内容から来ているものです。
ただ、研究で得た成果が「試作品」として棚の上に置かれたままになっていた。これを全国で実現させることで社会を変えようと思ったのです。
研究事業で生んだ成果を、いま世の中に広げている。だから、研究事業は大いに意味のあることでした。
「予防医療のインフラ」になる
「研究事業をやめる」と決断したとき、十数人いた社員の大半がやめてしまいました。当時入っていた渋谷の小さな雑居ビルのオフィスには、空きのデスクが、ひとつまたひとつと増えていきました。
しかし、それと時を同じくして「予防医療を世の中に浸透させるなんて、おもしろいこと考えてますね!」「ものすごいポテンシャルがありますね!」と入ってきてくれた人もいました。
それがその後の中心メンバーになる3人でした。
彼らが営業マンとして飛んでいって全国から契約を取ってきてくれた。そのおかげで、事業はどんどん広がっていきました。
先日、全社会議で2025年に向けた話をしました。その会議で最後にこう宣言しました。
「キャンサースキャンは予防医療のインフラになります」
創業以来50自治体くらいを相手にする事業だったのが、2016年に拡大へと舵を切り、2022年現在は700自治体まで拡大しています。
お取引があるのは47都道府県。つまり、全国の自治体とお取引をしています。
社員も200人、売上も数十億円まで成長しました。
結局、赤字を出したのは2016年の一度だけになりました。
あのときの決断があったからこそ、いまがある。私たちはこれからも「社会を変えている会社」であり続けたいと思っています。