ハーバード見聞録(3)


アメリカ最初の朝(1月31日)


 長旅で疲労困憊して昨夜は10時ごろ夢路についたが、時差のためか午前2時ごろには目が覚めてしまった。努めて眠ろうとしたが、異国での孤独と心の高ぶりからか、中々眠れなかった。 

3時ごろになると早くも「ピロ、ピロ・・」と少々眠そうだが小鳥のささやき。どんな小鳥なのだろうか。それから15分ほど後には「ヒューイッ、ヒューイッ、チュン、チュン、チュン、チュン、チュン」と始まった。今度の鳥は、目覚めが良いらしく、鳴き声に張りがある。

3時半ごろ、今度は「ギー、ギー」と鳴く声。声の大きさから判断して、さっきの鳥よりは少し体がデカそうに感じられる。続いてお日本でも聞き覚えのある「チュン、チュン」という鳴き声。アメリカにも雀がいるようだ。

間もなく、突然、「トン、トン、トン・・・」屋根の上を駆け回る足音。このタップダンスは、鈴木先輩から当地滞在中に頂いたメールの中に出て来たリスに違いない。五月蝿いという程ではないが、何となく耳に障る。眠りに入ることができない苛立ちからか。

ヴォーゲル教授(『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(原題:Japan as Number One: Lessons for America)の著者)の邸宅がある、当地、ケンブリッジ市サムナー街は庭付き一戸建ての高級住宅が多く、格別閑静だから鳥の声がこれは程よく聞こえるのだろう。そういえば犬の吠える声が聞こえないし、雄鶏も時を作らない。

後日、溝上教授に、「ここでは犬の声が聞こえないですね」と尋ねたら、「アメリカ人は犬好きで、この辺にも犬はいっぱいいますが、良く訓練されていて日本のように無闇に鳴かないようですよ」とのことだった。
いずれにせよ、アメリカ到着の最初の朝は、小鳥たちの早朝コンサートで歓迎を受けたのだった。

【後記】
 今は故人となられたが、ヴォーゲル教授の邸宅は実は四階建ての構造だった。私たち夫婦が借りた三階の屋根裏部屋の他に、一階は教授ご夫妻の部屋、二階のゲストハウスに加え地下室があった。
 2006年だったと思うが、教授はシャーロット夫人同伴で数カ月も中国に渡られた。鄧小平の伝記を書くための訪中であった。これについて、ある留学生とこんな会話をした。

「福山さん、ヴォーゲル教授が夫人を同伴するのは、CIAが用いる対中国用のハニー・トラップ防止策だと思います」

 「あのご高齢ではハニー・トラップは無用ではないか」

「中国はそんな甘いものではありません。2000年の歴史で培った手練手管で迫ってきます。ところで、ヴォーゲル教授が鄧小平の伝記(2013年に『現代中国の父 鄧小平(上、下)』を上梓された)を書く意図はどこにあると思われますか」

「アメリカ側――ヴォーゲル教授は元CIAの分析官――としては、中国が引き続き鄧小平の改革開放路線を堅持することを望んでいるからでしょう。ヴォーゲル教授が鄧小平の伝記を書けば、天安門事件で民衆を弾圧した鄧の罪を黙認・免罪するという暗黙のメッセージになるのだはないだろうか。天安門事件という負の罪科よりも、改革開放というポジティブな功績を重視しているメッセージを送るという訳だ。アメリカとしては、中国を先祖帰り(毛沢東路線へ転換)することなく、更に改革開放・民主化させ、将来アメリカの脅威にならないようにしようというのが本意だろう。一方の中国は、ヴォーゲル教授の鄧小平伝で、天安門事件の免罪を狙っているものと思う。インテリジェンスの面から見れば、ヴォーゲル教授は米中関係の最前線で活動する〝尖兵〟そのものだ。天晴という他無いよ」

「福山さんは、鄧小平伝の中で何が焦点だと思いますか」

「中国にとっては、鄧小平伝をヴォーゲル教授が書いて出版してくれることが政治・外交的に見て重要でしょう。記述内容としては、天安門事件のアメリカ側(ヴォーゲル教授)の表現振りでしょう。そこは、ヴォーゲル教授がさじ加減することだろう。中国サイドは、そんなわけで、ヴォーゲル教授の訪中の間は大いに厚遇することだろう。もしかしたら、金品までも呉れるかもしれない。そのうえに、CIAサイドとしては、ハニートラップまで警戒したというわけだろう」

 訪中直前に教授から呼ばれて行くと、地下室に案内された。そこは、ミニ図書館ともいうべき空間だった。教授は私に「福山さん、留守の間にこのアロカシア(葉の広い里芋に似た熱帯・観葉植物)に週一回このジョーロ一杯分の水をあげてくれませんか」と言われた。アロカシアの大きな鉢が置かれた場所は、地下室ではあるが、ガラス張りの壁から日光が差し込むようになっていた。その図書館に私を入れるわけだから、秘密のものはないはずだと思った。

 地下室で、しばし、教授と日本語で話した。
 「先生は凄い量の本をお持ちですね。先生の知的活動の源泉は本なのですね」
 「その通りです。本の一冊一冊は智識・情報・知恵(インテリジェンス)の『巨大なダム』だと思います。マルクスの『資本論』も、大英博物館の図書館で生まれたではありませんか。インテリジェンスと言えば、すぐにスパイ活動や新聞情報など日々変化する公開情報(オシント)の分析などが注目されますが、矢張り本を読み、多くの知識を身に着けることがベースですよ」

 ヴォーゲル教授の「本」とインテリジェンスの関係についてのご教示は私の胸にストンと落ちた。ヴォーゲル教授は昨年末亡くなられた。あの膨大な本はどうなるのだろうか。ハーバード大学のワイドナー記念図書館や東洋の文献を集めたイェンチン(燕京)図書館に寄贈されるのかもしれない。
 ちなみに、2018年の時点で、イェンチン図書館には150万冊の蔵書があり、そのうち中国関係が90万冊、日本関連が20万冊、朝鮮関連が20万冊あるといわれる。アメリカのインテリジェンスの基盤はこれらの蔵書だと、私は思う。



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