福山隆|元陸将|軍事評論家

陸上自衛隊元陸将。1947年長崎県生まれ。防衛大学校卒業後、陸上自衛隊入隊。1990年外務省出向、大韓民国防衛駐在官。1995年第32普通科連隊長として地下鉄サリン事件の除染作業を指揮。西部方面総監部幕僚長・陸将で2005年に退官し、 ハーバード大学アジアセンター上級研究員を歴任

福山隆|元陸将|軍事評論家

陸上自衛隊元陸将。1947年長崎県生まれ。防衛大学校卒業後、陸上自衛隊入隊。1990年外務省出向、大韓民国防衛駐在官。1995年第32普通科連隊長として地下鉄サリン事件の除染作業を指揮。西部方面総監部幕僚長・陸将で2005年に退官し、 ハーバード大学アジアセンター上級研究員を歴任

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ハーバード見聞録(1)

まえがき――『ハーバード見聞録』の由来(23年1月17日) l まえがきのまえがき 以下連載するエッセイは、十数年前自衛隊を定年退職した、還暦に近い老人の、二年間にわたるアメリカ・ハーバード大学アジアセンターの上級客員として滞在した間の文字通り「見聞録」である。十数年の時間は経っているが、アメリカの実像を見る上ではいささかも陳腐化していないと自負する次第である。  私は、2005年3月、陸上自衛隊西部方面総監部・幕僚長(熊本県健軍駐屯地)を最後に定年退官した。陸上幕僚監

    • 望郷の宇久島讃歌(17)

      第1章 望郷の宇久島 ●瀬戸の花嫁 宇久島には「町」と呼べるところは、平(たいら)と神浦(こうのうら)の二箇所の港町だけであった。九州本土の町に比べれば、取るに足らないごく小さな町に過ぎないが、そこには私が住んでいた福浦集落にはない映画館、床屋、雑貨店、洋品店、交番、船着場などが一応揃っていた。島の外に出たことがない私たち宇久字島の子供にとって平や神浦は、「都会」であった。 平や神浦の「町」のイメージしか持たない私が、小学校6年の時に、修学旅行で長崎市に汽船で渡った。そ

      • 望郷の宇久島讃歌(16)

        第1章 望郷の宇久島 ●ヤッチャンおばちゃん ヤッチャンおばちゃんは、私の祖母の妹だった。叔母ちゃんの名前は西初子といった。もう数年前に、名古屋で100歳近い長寿を全うされた。おばちゃんの夫は鹿児島出身の人――勿論私の記憶には無い――だったが戦死したため、おばちゃんは戦争未亡人となった。   未亡人になったおばちゃんは宇久島に住んでいた。おばちゃんは、遺族年金のほかに縫い物や洗い張りなどの内職を続けて、女手一つで一人息子の靖弘兄ちゃんを育て、長崎大学経済学部を卒業させた。

        • 望郷の宇久島讃歌(15)

          第1章 望郷の宇久島 ●虎蔵爺さん 母方の祖父の道下徳平は私が小学校に上がる前に亡くなった。徳平じいちゃんの思い出は二つある。一つ目の思い出は、私が4歳の頃だと思うが、徳平じいちゃんが私を抱き上げて農耕用の牛の背中に乗せてくれたことだ。牛の背中は広く、私の両足で牛の背中挟むことが出来ず、滑って落ちそうになるのを、じいちゃんが数十メートルにわたって支えてくれたのを、朧気ながら憶えている。    二つ目は、爺ちゃんが死んだ時の様子が微かに思い出される。私が後年聞いたことだが、

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        ハーバード見聞録(1)

          望郷の宇久島讃歌(14)

          第1章 望郷の宇久島 ●砕氷船ごっこ 村の子供たちは、潮が引いた後の砂浜で遊ぶ機会が多かった。砂浜のキャンバスに棒切れで思いっきり巨大な字を書いたり、絵を描いたりした。また、砂のボールを沢山用意して〝雪合戦〟に興じることもあった。砂のお城や山を波打ち際こしらえ、潮が満ちてくる頃には、それが波から削り取られられるのを補強して城や山を護る〝お城を波から守る作戦〟遊びをしたこともある。 あれは、春うららかな4月下旬頃のことだったろうか。私は同じ村に住む2歳年上の櫻木勝則兄ちゃ

          望郷の宇久島讃歌(14)

          望郷の宇久島讃歌(13)

          第1章 望郷の宇久島 ●鴛縁穣先生の〝伝説〟 「鴛縁穣先生は、武家の出じゃけんね。」という切り出しで、母は私に繰り返し「鴛縁先生伝説」を語って聞かせたものだ。母は、島では見かけることがない理想の男性像として、鴛縁先生を提示し、私の目指すべき具体的な目標を提示しようとしたのだろう。江戸時代の身分各付の「士族」がほとんど存在せず、所謂「民、百姓・漁師」ばかりの宇久島では、旧松浦藩士の流れを汲む小浜小学校校長の鴛縁先生は格別憧れの所在だったにちがいない。「先生は、いつも背筋をピ

          望郷の宇久島讃歌(13)

          望郷の宇久島讃歌(12)

          第1章 望郷の宇久島 ジャック・アンド・ベティ ●自然一杯の通学路 私が学んだ神浦中学校の学生が通う通学路は島では唯一の県道――唯一、島を一周する未舗装の泥道――であった。幾つかの集落の子供たちが数人のグループでこの県道伝いに登下校していた。県道は土の道路で、その両側は土埃を被った草木があるだけで何の風情もなかった。当時、宇久島に数台あるオート三輪車が通ると晴れた日には白い砂埃が舞い上がり学生服が埃だらけになった。また、雨の日には、泥水がビシャツと撥ね跳んで来て顔も衣服も

          望郷の宇久島讃歌(12)

          望郷の宇久島讃歌(11)

          第1章 望郷の宇久島 ●宇久島にアメリカ兵が来た! 宇久島は、「雉の島」 雉は国鳥であり、日本人にはなじみの鳥だ。雉にちなむおとぎ話に「桃太郎」がある。桃から生まれた男の子「桃太郎」が、お爺さんお婆さんから黍団子をもらって、イヌ、サル、キジを家来にして、鬼ヶ島まで鬼を退治しに行くというストーリーである。この物語テーマは、日本の伝統的な価値観である勇気や友情、正義で、子供から大人まで幅広い年齢層に愛されている。  雉は困難な状況に立ち向かう勇気や強さを象徴し、「桃太郎」

          望郷の宇久島讃歌(11)

          望郷の宇久島讃歌(10)

          第1章 望郷の宇久島 ●チッチッ(ホオジロ) 宇久島の鳥たち――雉 島には春が巡って来ると、様々な種類の鳥達が巣を作り、卵を産み・孵化し、雛を育てる。ここで、島で良く見かけた鳥たちの巣や卵や雛などについて、子供の頃の記憶を頼りに紹介しよう。 雉は、宇久島の代表的な鳥のひとつだが、その巣は、麦畑や松林の中などに地面を浅く掘り、わずかばかりの落ち葉や枯草などに加え自からの羽毛を敷いた実に簡単なものである。その恵まれた端正な姿や虹色をした鮮やかな羽の色などから判断して、雉は

          望郷の宇久島讃歌(10)

          望郷の宇久島讃歌(9)

          第1章 望郷の宇久島 ●クサビ釣り 「クサビ」とは、ベラという名の魚のことである。私の故郷・宇久島ではそう呼んだ。 余談だが、夏目漱石の「坊ちゃん」という小説の中に「ゴルキ」という魚が登場する。気の短い「坊ちゃん」が「赤シャツ」からあまり好きでもない釣りに誘われ、いやいやながら「ターナー島」の見える瀬戸内沖に小船を漕ぎ出して魚を釣る場面だったと思う。いつ頃だったか定かではないが、この小説が映画化されたものを見た。    余談になるが、私が子供の頃見た映画は、映画館で見た

          望郷の宇久島讃歌(9)

          望郷の宇久島讃歌(8)

          第1章 望郷の宇久島 ●鴨釣り ‐狩猟に格別の興味 小学校5年生の時の国語の教科書に『大造じいさんとガン』という題で、椋鳩十という動物作家が書いた作品・童話が載っていた。老いた猟師の大造じいさんと、じいさんが「残雪」と名付けたガンのリーダーの関り――いわば人と鳥との〝交流〟――を描いた作品であった。そのあらすじはこうだ。   〈大造じいさんは、栗野岳(鹿児島県姶良郡湧水町)の麓の沼地を狩場としてガンを猟銃で捕っていたが、翼に白い混じり毛を持つ「残雪」がガンの群れを率いるよ

          望郷の宇久島讃歌(8)

          望郷の宇久島讃歌(7)

          第1章 望郷の宇久島 ● 鎮台ゴッの捕獲 1686 五島列島最北端の島、宇久島の方言では、「蜘蛛(くも)=こぶ」の事を訛って「コッ」と呼ぶ。例えば、「オニグモ」――これは島を離れ、ずっと後になって知った名前だが――のことを子供の頃は「ドロゴッ」と呼んでいた。「ドロゴッ」は、昼間葉陰に隠れ、夜巣網に戻って、昼の間に網に引っ掛かった昆虫を食べる大型の不気味な蜘蛛だった。「ドロゴッ」という名前はその土色の体色に因んで呼んだものだろう。 また、田の畔に巣を張る黄と白のストライプの

          望郷の宇久島讃歌(7)

          望郷の宇久島讃歌(6)

          第1章 望郷の宇久島 ●青い鳥 子供の頃の私を育んでくれた宇久島の豊かな自然について紹介したい。最初は、夢中になった目白にまつわる話である。子供の私にとっては、目白こそが、チルチルとミチルが探し求めた「幸福の青い鳥」のようなものだった。 宇久島は野鳥の宝庫 五島列島最北端の島、私の故郷・宇久島には様々な種類の鳥が沢山いた。けだし、宇久島は鳥たちが生を楽しむのに必要な環境―山林、畑、水田、川、湿地、海岸に恵まれ、草や木の実、昆虫等が豊富だったからだろう。 鳶、雉、山鳩、雲

          望郷の宇久島讃歌(6)

          望郷の宇久島讃歌(5)

          第1章 望郷の宇久島 ●野糞 「ウーッ、お母さん、もう我慢できんばい」 「もうすぐ家に着くから、もう少し我慢して。急ごう」 「いやもうダメばい。ウンコの漏れそうばい。昨日の夜、塩クジラのライスカレーば、山盛りで二杯も食うたからだろう」 「この道端には野糞をする場所もないもんね。あと少しばかり行けば、梅山のキヌ婆ちゃんの隠居家があるけん、もうちょっと我慢して行こう」   中学校3年の冬のある日、私は母と家から5キロほど離れた松林に松の落ち葉――炊事の燃料――を採りに行

          望郷の宇久島讃歌(5)

          望郷の宇久島讃歌(5)

          第1章 望郷の宇久島 ●宇久島を離るる歌 私の人生にはいくつかの運命の岐路があった。最初の岐路は神浦中学校を卒業する時だった。私の進む道は四案あった。一つ目は、家業の百姓を継ぐ案。二つ目は、島外の集団就職すること。三つ目は学費が無料の陸上自衛隊の少年工科学校に進むこと。四つ目は長崎市にある三菱造船所の養成工に入り工員の教育を受けながら夜間高校に通う案。五つ目が高校に進学する案だった。高校進学も二案あり、一つは宇久島の宇久高校、もう一つは島外の高校――佐世保市にある佐世保北高

          望郷の宇久島讃歌(5)

          望郷の宇久島讃歌(4)

          第1章 望郷の宇久島 ●今村均将軍 前編の「鐘の鳴る丘」で書いたように、私がこの世に生を享けて最初に聞き覚え、歌ったのが「とんがり帽子」(菊田一夫作詞・古関裕而作曲)という歌だった。この歌は、私が生まれる直前の昭和22年7月5日から昭和25年12月29日までNHKラジオで放送されたラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌だった。  この「鐘の鳴る丘」というラジオドラマはフィクションであり、空襲により家も親も失った戦災孤児たちが街にあふれていた時代、復員してきた主人公が孤児たちと

          望郷の宇久島讃歌(4)