心のかたち 尾道の隠れた本屋「紙片」でのこと
初めて訪ねた広島県の尾道は、とりとめもなく不思議な街だった。この街で迷子になったらそのまま違う世界に入り込んでしまいそう。
行く前に、尾道が舞台の『転校生』という映画をみた。幼馴染の男女が神社の石段で転げ落ちたら人格が入れ替わって、その瞬間から一男が一美になり、一美が一男になる映画だった。そういう奇想天外な物語も似合う気がする。ごく日常から別の場所へとワープしてしまいそうな浮遊感がある。
尾道水道という場所がある。水道と聞いても、蛇口をひねる上水道しか知らないので、想像がつかなかった。
行ってみたら、幅300メートルくらいの水の道で、向島と本州の間の、瀬戸内海の狭い部分のことだった。幅が短いから夜になると向島の生活の明かりが水面に浮かんで本州側に届く。
海とは違って水の流れがまったりしている。フェリーが10分ごとに入ったり来たりしながら車や自転車を運んでいく。乗降場の付近で、家に帰る学生たちが自転車を止めおしゃべりしながらフェリーを待っている。物語の1シーンのようだった。
山側はまた違う世界が広がる。千光寺を目指して細い石畳の路地を上がっていく。住宅の裏のわきを通りぬけると寺がある。階段をおりて左に曲がればまた寺がある。まるで箱庭の中の迷路のようだ。
それにしても、寺ばかりだ。
その昔、北前船で尾道が栄えた時代、お金を儲けた人達が競うように寺を建てたという。あいつが建てたなら俺も建てたい、という具合に。
ここまで数が多いと神聖さというより人間臭くておかしい。
◯
前置きが長くなった。この街で一番忘れられないのはある本屋のことだ。
それは隠れた場所にあった。
商店街を散歩していて、カフェで一休みをすることにした。山小屋のような雰囲気の、あなごのねどこ、という変わった名前の店だった。
注文してからトイレに行こうとしたら、廊下をまっすぐ進んでください、と言われた。なるほど、ここは長屋を縦にしたような作りになっているらしい。それで、あなごの寝床か。
廊下の途中に宿があった。それを抜けるとトイレで、そこから中庭が広がっていた。
用を済ませて外に出ると、向こう側に小屋を見つけた。倉庫かと思いながら近寄ると小さな看板がかかっていた。
「本と音楽」
息をのんだ。
エントランスは緑に縁取られている。
心臓が高鳴る。誘われるようにアーチをくぐった。
入った先には雑貨やCDが並んでいて、その奥に店の人がいた。さらに左手側に一枚扉があって、扉を開けると壁の両側に本があった。エッセイや小説、心理学や社会学に分類できる本に絵本まで並んでいる。
かなり好みの選書だった。魂が吸い込まれるみたいに時間を忘れて棚を眺めていた。
どのくらい時間がたったのだろう。
生姜紅茶を頼んでいたのだった。そしてトイレにいったのだった。少し前のことなのに記憶があいまいだ。
慌ててカフェに戻る。その前に閉店時間を確認。明るいうちに街を歩きたい。
閉店は夕方の6時で今は2時なので、一度散策をしてから本屋に戻ってくることにした。
◯
街を歩きながらあるイメージが浮かんできた。
丸い円からツノみたいなものがボコっと飛び出ている。
道を歩いている時も、高台にある千光寺から商店街へ下るロープウェイの中でも、この形が頭から離れない。
なんだこれ?
ちょきっと生えたツノは触れば痛い。こういう髪型の人、いるよね。周りを威嚇しているようにも見える。同時にツノがあるから丸くなれない。うまく転がらない。不自由だ。不器用に痛い思いをしそうだ。
でも、ツノはアンテナみたいにも見える。周りを感じ取り、あっちだ、こっちだと指し示す。好きな人、好きなことができ、嫌いな人、嫌いなことができる。感性が生まれる。違和感が生まれる。
ふと母の顔が浮ぶ。あの人、絶対ツノが生えているタイプだと思う。
そこまできてわかった。
ああ、これは多分、人の心のかたちなんだ、と。
人の心のかたちだとして、、、
私には、完璧な円でいたい、という願望がある。
全てがなめらかで、調和して優雅な円。どっこも痛くならない完璧な円。
時々、そうなれそうに思う時がある。例えば、誰とでもおしゃべりできる時とか。
でも、その後で、必ず迷い子のような気持ちになる。なめらかなはずなのに、呼吸が浅くなり薄くなっていく。ああ、回復する時間が必要だって思う。
結局、私にもツノがあるのだ。
まんまるの円じゃない、なれない。びゅんと飛び出たツノがある。取り除くことのできない一部として。私はこの形を抱きしめながら行くしかない。ツノはなくせない。
○
もう一度、本屋に戻ったとき、店内は誰もいなかった。静かな場所で本をみていたら涙が出てきた。
さっきまでご機嫌で散歩していたのに、どうしたものか、と驚きながら急いでタオルを取り出す。拭いても拭いても、もう隠せないくらい涙が出てきて、出てきて、止まらない。
なんで泣いているのか、わからない、ただ、堰を切ったように涙が流れてくるし、店内に私しか居なくて、店の人も扉の向こうにいて入ってこないのでもうなるように任せた。リュックも床に置いた。
とりあえず、泣けるだけ泣いた。
◯
一時間くらいして落ち着いてから、ゆっくりと本を選んだ。その時選んだ3冊は宝物のように思っている。
お会計をしながら店主の人に「泣いてしまいました。」と伝えたら、「そうですか。ありがとうございます」と言った。
その人はまだ若くて、お兄さんといった風に見えた。私は思わずその場で、好きです、と言いそうになった。
この人が作った空間や選んだ本に囲まれて、これだけ泣けてしまうと、私は深く見守られているような、抱かれているような気持ちになった。
店内を一度も見にこなかったのもすごいと思った。万引きとか心配にならないのかな。ひたすら、人と本が出会う場所の力を信じているように思えた。
ちょうど6時を知らせる千光寺の鐘が鳴る。閉店の時間だ。ここで過ごした時間が鐘の音で優しく閉じられていった。
まるでセラピーのようだった、と思う。見えないクッションに包まれながら泣かせてもらった。
店主さんのことは私は知らない。ただこの方が通ってきた道が、店という形になって表現され、それに出会った私がこんなにも深く揺さぶられたことは事実だ。人生の軌跡がたった今重なったということだ。店をそのような場に高めていることに深い尊敬を抱いた。
思い出すのは石の形だ。店のあちこちには石があった。自然に侵食された手のひらサイズの石が色々な場所に飾ってあった。どれもなめらかで艶があって、形は微妙にまちまちで、色気があった。
最初はゴツゴツしていた石も時間をかけてなめらかになっていく。焦る必要はない。ゴツゴツしていてもいい。いつかはきっと、それぞれの美しさを見つけられるから、、、というメッセージにも思えたが、これは後から考えたことだから、本当の意図はわからない。
「本と音楽 紙片」は詩的な本屋だった。一瞬でインスピレーションを受けた。涙に溢れた。深いところでとどこおっていたものが解けだす予感がした。そんな本屋は初めてだった。
街の感触とともに、「紙片」との出会いを、そっとずっと覚えていたい。