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01【針箱のうた】はじめに

フク孫註:文中にあるとおり、この文章は1998年の再刊にあたって「はじめに」としてフクの息子であるHが書いたものです)

お互いの労苦を肌身で知っていた親戚のおばさんに、母の死を連絡したとき、「ねえちゃんすごい。よくやった。ねえちゃんらしい死に方だねえ。そんな死に方なかなかできるもんじゃあないよ。拍手だね。大きく拍手だね」と受話器の向こうからとても明るい声が返ってきました。おばさんの小気味良い下町の口調。母もおばさんも東京の下町育ち。私はとても元気づけられる思いでしたが、受話器を置いた後のおばさんの姿が私の目に浮かびました。

1998(平成10)年6月17日午後7時45分、栃木県川治温泉の旅館で母は死去しました。行年82歳でした。死因は脳出血です。町会婦人部の旅行に参加させていただいた中でのことです。近頃のいろいろな母の悩みごとを忘れさせてもらえるような、本当に楽しい一泊旅行だったのでしょう。婦人部の役員の方から伺ったところによると、バスの中では皆さんの歌をカスタネットで盛り上げたりして、足がいつまでも丈夫なようにと念じて作りためた小さな草履の根付けを皆さんにプレゼントしたりして、心臓が良くないのでいつもは烏の行水の母が、温泉がよほど気持ちよかったのかいつもより長めにお湯につかっておしゃべりをしたりして、「温泉をここにあてるといいわよ」とお節介をやいたりして、さてこれから宴会だ……という矢先に、部屋で倒れたといいます。
「母が倒れた」との一報の後すぐ「亡くなった」との報せ。その報せが信じられず、涙も出ない私たち。東北自動車道を大型トラックの合間を縫いながら2台の車で川治温泉へ。短い電話からは何が何だかわからない。皆さんの旅行を台無しにしてしまったのではないかという不安が家族によぎる。それは母が一番望まないこと。でも何もわからない。「川治温泉って遠いね」とひとりがつぶやきました。
深夜12時少し前、私たちは旅館に着きました。 旅館の方と添乗員の方に丁重に部屋に案内されました。母は宴会の余興の一番手とし て舞台に上がる予定だったそうです。母は秋田大黒舞のきれいな化粧のままでそこに眠っていました。「どうしちゃったのよぉ、おばあちゃん」と声をつまらせる孫娘。言葉にならない私たち。あまりにもあっけない別れ。「かあさん。おばあちゃん。うちに帰ろう」と皆で声をかけて、東京に向かいました。遺体搬送車には私が乗り込ませてもらいました。6月の東京はほとんど雨でしたがこの日の朝は晴れ上がり、車のカーテンのすき間から朝日が母の柩にあたりました。住みなれた店は階段が狭くて柩は上がりませんでしたので、義兄宅で葬儀までの3日間を母は過ごすことになりました。初めて娘の嫁ぎ先に泊まりました。この出来事を町会婦人部の役員の方々は、この旅行が終了するまで隠し続けてくださいました。さぞかし大変なことだったと思います。ここに改めてお礼を申し上げます。

大震災、大恐慌、戦争と、母の一生は激動の歴史の中での一生でした。懸命に働き、子育て、本音でぶつかり、知恵をはたらかせ、友だちを大切にし、しっかりと家族を護り通そうとした一生でした。50歳を過ぎた息子たちを心配し続ける母を、子どもは幾つになっても子どもだと思い続ける母を、私は疎ましく感じたりもしました。82歳で亡くなる直前まで現役で働き続けた母。大学ノートにびっし りと数字を書き込み家計簿を付け続けた母。その母は今はいません。和裁とねじの袋詰めで母の背中はまん丸でした。笑顔と丸い背中が舞台にたち我流の踊りを披露するのです。母の体には昔の深川の 祭り囃子がきっと流れていたのでしょう。この日披露する予定だった秋田大黒舞は呆れた大福舞とでもいったほうがいいかもしれません。
13年前(フク孫註:1985年)父が亡くなる直前母にこう尋ねたそうです。「生まれ変わったら,もう一度一緒になってくれるか」と。例の下町口調で母は言下に「いやだ」 と答えたといいます。「いやだ。真っ平御免だよ。昔のお父さんはいやだ。今の優しいお父さんならいい」。

今の街に移り住んで50年になろうとしています。この地で友人にもとても恵まれた母でした。寒い日も暑い日も町内老人会の皆さんとお話のできる公園のお掃除を、何より楽しみにしておりました。そして大型店の出店等で大変厳しい環境の中で、苦楽を共にしてきた商店街振興組合の諸先輩・ 友人の方々。さらに町を暮らしやすい所にと心をくだいて下さっている町会の方々。また私を通じて若い新しい友人もできました。1992年にこの本をシリーズ本の一つとして出版し、出版記念会まで開いて下さった社会教育団体の友人(フク孫註:今回はそれを自費出版の形で再刊させていただいたものを底本としてWEB上に掲載いたしました)。何度も商店街のイベントに出演して下さった、韓国・朝鮮の農楽演奏のグループの友人。 母はこんな感想をもらしました。
「お前の友だちはみんな真面目でいいひとだ。お前に紹介してもらわなかっ たら、韓国や朝鮮のひとのことは私には一生わからなかったろうねえ。私くらいの歳の者は、昔のままの考えのひとが多いから。みんなと飲むと本当に楽しいねえ」

私は母から朝の店の周りの掃除を引き継ぎました。植木に水をやり、通りに水を打つとなぜか心が落ちつきます。 この文章をまとめることで、きっとお酒の量も減ることでしょう。「おばさんなくなっちゃって、寂しいねえ」「ちょっとお線香を上げさせて」「仏様にこれを上げて下さい」と、掃除をしているといろいろな方から声をかけていただきます。母が世話をしていた今年18歳のネコという名の犬も全く元気がありません。けれども、母が楽しみにしていた朝顔のつぼみが、7月に入るとグンと大きくふくらみ始めました。これからどんな色の花をつけてくれるのでしょうか。

ここに改めて生前の母に対する皆様のご厚情に深く感謝申し上げます。お暇な折りにでも、この私たちの母の半生記をお読みいただければ幸いです。

1998年7月17日 H・S

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