12【針箱のうた】戦後時代1945~1986(昭和20~61)年(2/2)
生活費を入れてくれないおとうさん
H
おとうさんも戦前の道徳を身にしみ込ませた人のようだったけど、この頃はどうだった?
フク
贋ライターの部品のギア切りの工場を始めた。「徴用工時代の上司と一緒に機械をつくって、夢中になっていた。ちょっとお金を稼ぐと、すぐまた新しい機械に使ってしまう。でも贋ものづくりだから、捕まったら大変だというので1年もやらないうちにやめた。この間うちには生活費を一文も入れてくれなかった。
H
何でだろうねえ。家族の生活費を入れないなんて、ぼくには考えられない。もしぼくがそんなことしたら、連れ合いに何と言われるか分からない。(笑い)
フク
私だっておとうさんに散々言ったよ。悪いけど月に5000円入れて欲しい。そうすれば、私が子どもたちを育てるからと。でも入れてくれなかった。この頃のおとうさんは子どもたちもあまり可愛がらなかったし、家族への思いやりというものは本当に薄かったね。
H
家族という小社会の中では、男は独裁者だったのかな。でも1銭5厘で兵隊にとられて、人殺しをさせられる哀れな独裁者だと思う。敗戦後、政治は男女平等をうたう民主主義になっても、社会は戦前の尾をずーっと引きずってきたんだね。
この頃のおとうさんは、家族に相談するという事を全く知らなかったんだね。民主主義のいいところは、人間が平等だということと、意見をぶつけあって相談できることだとぼくは思う。ぼくの体験からもいえるんだけれども、夫婦でも友達でも相談し合った方が、よっぽどいい結論が出るんだ。そうした人間関係の楽しさを、この頃のおとうさんは知らなかった。
フク
そうなんだよ。だからおとうさんにもはっきり言ったよ。この頃のおとうさんは大嫌いだって。おとうさんが亡くなるちょっと前に、生まれ変わっても結婚してくれるかと聞かれたから、今のおとうさんならいいけど、この頃のおとうさんならお断りだと答えた。
インフレ
H
建前では敗戦で世の中の価値観が180度変わったわけだけど、その辺で何か感じたことある?
フク
価値が変わったというのはお金だね。昭和22~3年は、物価はどんどん上がっていった。
H
インフレだね。みんな生活が大変で、必死だったみたいだね。米よこせデモやストライキの話はぼくも知っている。
フク
駄菓子屋はダメだし、貸し自転車も乗ったっきり帰ってこない子どもが何人もいて、おとうさんのギア切り工場もダメだし、昭和25年頃のうちの暮らしはまたどん底だよ。これじゃあどうしようもないから、お前をおぶって洋裁を習いに行った。和服の仕事はなかったからね。洋裁学校の月謝を払えないから、見よう見まねで縫い物をしながら習った。夏物のブラウスやワイシャツ、ズボンのひざあて、ご近所の縫い物をやらせてもらった。布団もかえまきも何でもやった。
PTA
H
おとうさんは?
フク
おとうさんは何にも用がないから、小学校のPTAに入りびたりになってしまった。
H
何しに行ったの?
フク
何をしていたのか私には分からない。地域の歯医者さんとか、商店のご主人とかが集まっていたみたいだ。おとうさんはこちょこちょとよく動くし、固くて正直だから、下働きでもしてたんじゃないかねえ。PTAは社交場だった。PTAがなければ釣りへ行っていた。
H
PTAの集まりを父兄会と言っていたのを覚えている。家父長制の名残りだったんだね。今ではPTAの集まりを父母会と言うようになってきている。PTAは教育の民主化政策の一環として、1947年3月に占領軍によって作られたんだって。
フク
そうかい。でもそこで知り合った工具屋のご主人が、今のねじ屋を始めるきっかけをつくって下さった。
ねじ屋開業
フク
工具屋のご主人が、兄の空店があるから何か商売をやらないかと声をかけてくれた。おとうさんは徴用工時代にねじを少し知っているので、ねじ屋をやらせてもらいたいといって商売を始めた。店の権利金が3万円だった。私の実家から借りて、毎月銀行利子つけて返しに行った。
仕事の合間にひと息ついて引っ越しはあわれだった。引っ越すのに、お金がなく運送屋さんの自動車が頼めない。親戚の男手を集めて朝一番にリヤカーで引っ越した。昭和26年の夏だった。
H
朝鮮戦争の翌年だ。
フク
そうなの。景気が落ちてきたころ開業した。工具屋さんのご主人がねじ問屋さんを紹介してくれて、30万円分のねじを貸してくれた。もう少し前にねじ屋をやれば、うちもたいしたものだった。
H
1950年の朝鮮特需だね。今大きくなっているねじ屋の土台は、この辺でつくったんだ。
フク
M子とK夫は学校から帰ると、神田の問屋まで品物を取りに行くんだよ。商売の邪魔になるお前は電車賃がタダだから、よく連れて行かせた。ねじは子どもには重いからねえ。最寄りの駅まで何とかふたりで持ってきたけど、国道に落としてしまった。泣きべそをかいて帰ってきので、国道にバラまかれたねじをひろいに行ったこともあった。その頃の国道は車がまばらだったね。
H
ぼくは物心つくようになってから、戦争でもうけるというのは、とても問題だなと思うようになったんだ。そんなこと考えなかった?
フク
だってもうけなきゃしょうがないもの。食えないもの。
H
戦争なんかじゃなくて、みんなの生活に役立つようなねじを売ってもうけさせて貰った方がいいね。
フク
そりゃあそうだよ。
「豆腐の角に頭をぶつけて死のう」
「どうせ死ぬんだったらおとうさん、豆腐の角に頭をぶつけて死のう。その勢いでやろう。今まではひとっつも、わたしはおとうさんの趣味に協力しないし、おとうさんもわたしの意見を聞いてくれなかった。けれども今度は死ぬ覚悟でいきましょう」と話し合って、まるで夜逃げみたいにして引っ越してきた。
最初のうちはいかにしてもねじは売れないんだよ。うちには電話はなかったしね。今はなくなってしまったけど、電気屋さんの電話を借りた。電気屋さんだからブザーをうちまで引いてくれて、ブザーが鳴るとすっとんで行って文を聞いた。慌てて行って転んでしまい、茫然としたことも1度や2度ではなかったよ。前の家を処分した23万円でオートバイを買って、おとうさんは配達するようになった。ほんとうは38万円で売れたのだけれども、不動産屋に15万円騙されてしまった。おとうさんもわたしもお人好しなんだよ。でもそんなことをした不動産屋の店は、数年後火事で焼けてしまった。悪い事というものは、できないものだよ。
商売の恩人
フク
おとうさんは今まで、あんなにPTAだのヘチマだの勝手にしていたのが、本当に一生懸命やってくれてね。夫婦でドロドロになって働いたよ。なりふりなんてかまっちゃいられなかった。毎日店の前を通っていた信用金庫の理事長さんが、そんなわたしたちを見ていたんだね。信用金庫に借金の申込みに行ったら「おたくは固いから」といって、その理事長さんが保証人になってくれた。理事長さんと、工具屋さんと、ねじ問屋さんは、わたしたち夫婦にとって「神様」だ。
ねじ切り旋盤
フク
ビルの天井やシャンデリアを吊るスタット・ボルトの仕事が入ってくるようになってから、仕事が伸びていった。東宮御所や大手町ビルや高島屋のねじなども切ったよ。
H
朝鮮戦争の特需で息を吹き返した日本経済が、高度成長に向かう1960年(昭和35年)頃だね。
フク
始めは手でダイスを使ってねじを切っていたけど、疲れてしまうし、数も知れている。近くにねじの工場もない。どうしてもねじ切り旋盤がほしいというので買った。仕事があるときは、朝から夜までおとうさんはねじを切った。その上、釣りのシーズンになると、明け方出かけていった。これじゃあ体をこわしてしまう。案の定オートバイで配達中に、トラックとぶつかって足を折ってしまった。何ヶ月か入院して、あしが治らないうちに働きはじめた。オートバイは乗れないので、三輪トラックをこの時買ったよ。おとうさんはしばらく片足で運転していた。またまた借金だ。借金のことでもよく夫婦喧嘩をしたね。
H
覚えてる、覚えてる。派手だったねぇ。
フク
おとうさんはすぐちゃぶだいをひっくり返したり、茶碗を放り投げた。もったいなかったぁ。私は欠けた茶碗をとっておいて、負けずにたたきに叩きつけた。そうするとおとうさんも黙ってしまった。子どもたちもシーンとしてしまって、その日は円満におさまった。
「本当にいろいろなことがあったよ。死ぬまではたらくよ」
H
おかあさんのこれまでの道を聞きはじめて、1年が過ぎたわけだけれども、一応この辺で区切りをつけたいんだけど、家族についてとか、今後の抱負とかあったらどうぞ。
フク
M子が大学にいかせてくれと言ったときのことは忘れられない。「おかあさん、着物も洋服もいりません。だから大学に行かせて下さい」といった。わたしは「やだ」といった。だって「弟のK夫は中学を出てすぐ店を手伝って働いて夜間高校へ行っているのに、お前を大学にやるわけにはいかない」といった。M子も悩んだろうよ。そんなとき、わたしの歯を治してくれた、おとうさんの釣り仲間になっていたI先生が家に来て、「おかあさん、女の子はお嫁にやるんでしょ。将来、大学へあげてくれないからこんな生活をしている、といわれたらどうしますか?やれないんじゃないでしょ。やってやんなさい」といってくれた。わたしは先生のおっしゃる通りだと思って、おとうさんに相談した。そうしたら「やってやれよ」という答えだった。わたしの実家から4万円借りて、女子大の入学金4万2千円をM子と私とで払いに行った。付属の幼稚園も同額の入学金だった。子どもが付添いの人と車で来て、わたしたちの前でサーと払って帰っていった。わたしはやっとの思いの4万2千円なのに、上には上があるものだし、下には下があるものだと思いながら、実に上下の切なさをこのときほど感じたことはなかった。
H
K夫兄貴は、夜間大学時代夜学連で60年の安保反対デモに参加したらしいね。
フク
そんなことは一言もわたしにはしゃべらなかったね。お前が何度か家出をしたときも、行き先は絶対にしゃべらなかった。とても弟思いで、お前のことをよく可愛がったよね。死んだ子のことはいいことしか思いださないのかねえ。暇さえあれば山に行って、とても思いやりのある子だった。昭和47年(1972年)4月4日朝、心臓発作で突然死んでしまった。妻と5才の双子、生まれたばかりの赤子を残して。店も軌道に乗ってこれからだというときに。死んだときは辛かったよ。お前は下宿先にはいないし、どこに行ったのか、ずいぶん捜したんだよ。身も世もなかったよ。
H
K二兄貴にもぼくは可愛がられたな。
フク
K二は高校をでて、大阪のねじの問屋さんに修行に行ってよかった。しばらく経つと、普通の仕事は何もしなくていいからお得意を取ってこいといわれて、苦労したらしい。お得意を増やすのがうまいのは、このときの大阪での修行のお陰だ。お前はやたらと家出をした。多少親孝行するようになったのは、結婚してからだな、ワッハッハッ。本当にいろいろなことがあったよ。おとうさんも昭和61年(1986年)1月25日に先立ってしまった。お前が家業を継いでくれてよかった。たいしたことはできなくなったけど、仕事をすることは好きだ。わたしは、死ぬまで働くよ。
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