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「違和感」を肯定的に─『建築と日常 特集:平凡建築』

編集者・長島明夫氏による個人出版本『建築と日常』の最新号を読んだ。特集タイトルは「平凡建築」。

ここで語られる「平凡」とは要約するとこういうことだ

①「平凡」であるということは「並」であるということ。つまり、建築の基本的性能(雨風をしのぐ、など)を満たしていること。
②人間が文化的に生活する安定した環境は大多数の「平凡」な建築の調和によって生み出されている。
③ほとんどの人は「平凡」な建築の中で生活している。「住めば都」という言葉があるように平凡な方が愛着が発生しやすいのかもしれない。
④「平凡」とは常識的で身の丈に合ったあり方。それを否定することは隣人の生活を否定することにも繋がる。
⑤建築はさまざまなものごととの関係の中で存在している。「平凡」な方が魅力を引き立てることに対してプラスに作用する可能性もある。

本書はこの視点から建築について迫っていく。取り上げられるのは逓信省で多くの建築を残した吉田鉄郎坂本一成氏の佐賀県歯科医師会館、柳宗悦の「民藝」運動、みかんぐみの論考「非作家性の時代に」、堀部安嗣氏の「fca」「河井寛次郎記念館」などなど。

「違和感を肯定する」

本書を通して、「平凡」という言葉から僕は「平凡」とはつまり「違和感を肯定する」ことではないかと感じた。

「平凡」は微小な偏差の中で(もしくは上に)存在しているものだと言える。同じようなものがいくつかないと、それを「平凡」だとは言えないだろう。他とは全く違うものだったら「非凡」だ。

その偏差を楽しめる時こそ「平凡」の良さが現れてくるのかもしれない。意識的にそれに接することで、「平凡」が見えてくる。それは「違和感を肯定する」ことだと思う。「平凡」は目に見えない。


本書の中に専門家に「あなたにとって飽きない建築とはどういうものですか?」と聞くアンケート企画がある。

その中で建築家の千葉学氏はロンドンのテラス・ハウスを上げ、こう書いている。

社会全体で共有される形式があるからこそ、ひとつひとつの住居の個性は際立つし、また共有の形式を基盤にしているからこそ地域性も鮮やかに浮かびあがるのである。

ある共有された形式が内発的な要求やコンテクストによって部分的にハックされる、それが「地域性」であり「違和感」なのだと思う。そして、「平凡」であることなのであると思う。


「あなたにとって飽きない建築とはどういうものですか?」

勝手に考えてみる。建築ではないが、何かあったら熱海に行くという習慣が僕にはある。

熱海は「平凡」な街だと思う。それは僕にとって「違和感」に満ち溢れている街だ、ということだ。

行くたびに発見がある。これを一般的に「平凡」と呼ぶのかは微妙なところだが、「非凡」とも呼べないだろう。だから、僕は「平凡」と呼んでみる。

なぜ熱海は「平凡」なのだろう。それはおそらく傾斜地という特殊な地形に街ができていることに起因するだろう。そして、そこには長年積み重なってきたトライアンドエラーが「違和感」となって表出している。

「平凡」=「違和感を肯定する」はおそらく意識的につくれるものではないのだろう。ある制約をどう解釈するのか、反復するなど半ば無意識的な領域に立ち入ることだ。

熱海に行くとそんなことを考える。また熱海に「違和感」を探しに行こう。


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