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VRインタビューの臨場感
昔の読書メモを読み返してみるシリーズ。今日は『編集の提案』津野海太郎 著、宮田文久 編です。
社会のなかにはきっと、「編集」がなしうることがある。そのヒントは、 伝説の編集者・津野海太郎がつづってきた文章にひそんでいる――。
晶文社での活動をはじめ出版文化の重要人物でありつづけ、テント演劇の時代からコンピュータの世紀までを駆け抜けてきた著者による、 過去を携え、現在と共に呼吸し、未来を見すえる編集論集。
【伝説の編集者・津野海太郎 実践のクロニクル 1977-2001】
最初の「テープおこしの宇宙」では、編集者なら触れるテープおこしというありふれた行為に秘められた魅力(?)について語られる。
でも、話しことばと書きことばとのあいだには、なにか大事なものがひそんでいるようだという感覚だけは辛くも生きのびている。他人が話したことばを文字に書きとめる。このささやかな手作業をつうじて、私は、はじめて人類が文字を知ったときのよろこびやおどろきを追体験することができる。もちろん、見るかげもなく衰弱したかたちにおいてではあるがね。
テープおこしという行為自体は、個人的には嫌いではないのだが、何分、かなりの集中を要するので、なかなか手をつけるのが憚られてしまう。
なにしろ、誰かが話しているのを書きおこしているわけだから、音楽を聴くわけにもいかないし、言葉を聞き逃さないように集中する必要がある。そして、内容についてもフォローしなければならない。非常に集中力を使うし、少なくとも話されている時間分は作業時間が必要となる。
そして、話し言葉をただおこすだけ、いわゆる「ベタおこし」を読むと、人間がいかに理路整然と話せていないかが分かる。大抵は話が色々な場所に飛ぶし、言葉の詰まりなども入る。ここから文章として整えていく行為は、本書で言う「演出」なのだろう。時には、文章の順番を入れ替えたり、補足をすることもある(もちろん、それは公開される前に話者に確認をしてもらう)。テープおこしをすると、そうした話し言葉と書き言葉のあいだを改めて感じる。
いいすぎを覚悟でいってしまう。もしかしたら座談会は、近代日本が生んだ最大の「笑いの文学」形式なのかもしれない。
人間はいつも笑ってばかりいるわけではない。ときには議論のさいちゅうに腹を立てたり涙ぐんだりもする。ところが座談会では(怒)や(泣)は捨てて、ひたすら(笑)だけを記録にとどめる。この偏向は座談会以前、明治十年代の日本で、田鎖綱紀、若林坩蔵、吉永吉延といった人たちによってはじめて速記術が開発されたときから、すでに存在していた。誕生したばかりやおどろきにあと押しされて、演説速記や談話筆記という新しいジャーナリズム形式が生まれる。
確かに、記事をつくるときに(笑)以外の感情表現を使ったことはない。そして、座談会は(ものによるが)結構な割合で笑い(のような感覚)は起きる。そうした雰囲気を愚直に記事に反映しようとすると(笑)だらけになってしまうこともしばしばだ。そうした時に、どこに(笑)を入れるかでうんと悩むことがある。
他方、演説会や講演会とちがって座談会に聴衆はいない。聴衆のかわりに、座談会では数人の出席者たちがおたがいの聞き手になる。聴衆の存在感がうすれるにつれて、(人々大ニ笑フ)が(笑声起る)になり、それが座談会草創期に(笑声)に一本化され、(笑ひ)や(笑い)をあいだにはさんで、いまはただの(笑)である。現在の(笑)記号は、そうとうに抽象度というか内面化度がたかい。それは、出席者たちが自分で発言しながら、あるいは、ほかの出席者たちの発現を聞きながら感じていたであろう。それゆえに「厳密に言えば耳では確かめることができないはず」(高橋)の笑いに類する感情のすべてをふくむ。そして、こうした内面化された(笑)からはみだしていまう現実の「笑声」のほうは、いまのジャーナリズムでは、「アハハハ」とか「フフフ」とか「ワッハッハッ」といった擬声語によって記録される場合がおおくなっている。
上に書いたように、自分は記事に(笑)と入れるが、果たしてそこで参加者は実際に笑っていたのだろうかと改めて考えてみると不確かである。笑いだって、声を出さない笑いもあるわけだから、ICレコーダーには収録されないので、確認するすべもない時もある。そして、そういう笑いは本人自体も意識していないのかもしれない。ということであれば、そこで感じ取った(笑)は場の雰囲気によって醸成された何かということなのだろう。
実際にその場にいないと感じ取れないダイナミクス。
この話と関係するかは分からないが、コロナ禍によって変わったのはオンラインインタビューや座談会が増えたことであった。それ以前であれば、よっぽど遠方の参加者がいない限りはオンラインではなくオフラインで開催していた。
Zoomなどでのオンライン開催は確かに、企画する側としては準備をギリギリまでできるし、移動時間のコストもない。メリットは確実にあるのだが、ある程度数をこなした時から、オンラインよりオフラインの方が良いなと感じるようになった。あくまで個人的な感覚でしかないのだが、オフラインであった方がより多くの話を聞けたな、という感覚を持てるのだ。
オンラインの問題点は、リモート飲み会などが流行ったときにも盛んに言われていたような気がするが、やはり身振り手振りがないことによって相手から得られる情報量が減るし、そして、どうしても一人一人が個別に話すような感覚になってしまう点にあると思う。インタビューであれば、ある程度はそれで大丈夫ではあるが、座談会など複数人になると、後者の問題点は如実に感じられる。
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先日、久しぶりにVR機器を使ってのインタビューをした。
VRChatをテーマにした記事をつくろうとすると、その取材先はVRChatにいるわけだから必然的にVRでインタビューをすることになる。
久し振りにVRでインタビューをすると、VRでのインタビューは明らかにオンラインよりオフラインのインタビューに近いと感じられる。
アバターで身振り手振りを見ることができるし、複数人が同じ空間に集まることで「みんなで話している感」も生まれるからだと思われる。VRを使うことによって、空間を共有し、そうした臨場感が得られる。この経験をすると、改めてインタビューや座談会は、ただ話を聞くだけではなくて場の雰囲気を一身に浴びることも重要なのだと感じる。
また、Zoomなどのオンラインでできないこととしては、取材が終わった後のゆるーい雑談的なタイムだと思う。終わったけど終わってないような感じでだらだら話す中で、取材した人の人となりの解像度が上がることもある。VRインタビューの場合は、その人が制作したVR空間にしゅっと連れて行ってもらうことすら可能だ(先日のインタビュー終了後にも色々見せてもらった)。
そう考えると、VRでのインタビューには、オフラインとはまた別の感覚が生まれ得るのかもしれない。しかしながら、そこには「空間を共有する」という要素は共通しており、それが重要なんだなあと思う。(レコーダーなどを存在させなくても良いというのも影響があるかもですね)
テープレコーダーを前にすると、とたんに芸能人は口がしぶくなる。「なんとなく隣りあって酒を飲んでいるという状態のほうが、はるかにいい話が聞ける」とかれはいっていた。
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