怒りの奥にあるもの
遅めの昼食を作ろうと
母がいるリビングに入った途端、
「暑っっ!」となった。
パッとクーラーを見る。
稼働しているようなので
この室温はおかしい。
リモコンを確認したら、
まさかの『送風』になっていた。
温度計を見ると、
室温はもうあとわずかで28度。
筋肉量の少ない高齢の母では
あっという間に熱中症になりかねない。
この室温の中で、
あれこれの手続きの書類を
熱心に読み書きしていたようだ。
恐ろしい。
「なにこれ、送風だよ!」と
つい語気を強めてしまう。
母は
「え!間違えた」と答える。
ちょっと冷静になるよう自分に言い聞かせて
「そう、じゃあ冷房に切り替えたからね」
と伝え、キッチンに入る。
そしてキッチンで昼食を作りながら
悶々とする。
間違えようと思って間違えたわけじゃない。
それは、わかる。
今回は「間違えた」だったけれど
母は節約のつもりか、
冷房をあまりつけなかったり
私にとっては高めだと思う温度でつけたりする。
だからまたそれかと思って
一瞬言葉が強くなったけれど、
間違えたのなら仕方ない。
子どもの頃、
親は、
両親は、
完璧なのだと思っていた。
世界のすべての教えは、
親からもたらされてたから。
大河ドラマを見れば
歴史上の人物の説明をしてくれたし、
理解できないニュースは
こちらが理解できるギリギリのラインで
やりすぎないように解説してくれた。
毎日ごはんを作ってくれるし、
安心して冷房をつけたり
お風呂でじゃぶじゃぶ遊んだりできた。
でも今は違うようだ。
違うんだ。
完璧なんて
きっとこの世にはなかったのだ。
人は間違えるものだ。
歳を重ねるごとにわかるようになる。
自分がそうだから。
だけれど
今は親を見て
「親でも間違えるんだ」と
自分に言い聞かせている。
間違えるんだ。
老いとは
そういう側面があるのだ。
みりんとお酢を間違えたり、
それこそ
ブレーキとアクセルとを
間違えたりするんだ、きっと。
こんなことくらいできるでしょう、と
今までできていたのだから、と
できないことや間違えることに
イラッとするけれど、
そんなことすらできないことが
当たり前になることもあるのだ。
溌剌としていて
なんでも知っていて
力強くて
やさしくて
守ってくれていた人は、
いつか消えてなくなってしまう。
そんな怖さと寂しさを
なんとか怒りで覆い隠そうと、
今日も私は
つい語気を荒げてしまうのだ。