
【書評】みんなが手話で話した島
今回ご紹介する本はこちらです。
かつて、遺伝的な理由により、聴覚障害者(本文では聾者と表現されています)の割合が異常に多かった島がありました。
島の名はマーサズ・ヴィンヤード島。
その島では誰もが普通に手話を使って話し、健聴者と聾者のあいだに、ある意味コミュニケーション面でのユートピアが実現していました。
聾者本人ではなく、当時を知る高齢者への聞き取り調査に基づく研究なので、当事者にはもちろんそれなりに不自由もあったでしょうが、データを見ても、マーサズ・ヴィンヤード島の聾者が同時代の平均的な聾者と比べても、現代の聴覚障害者と比べてさえ、格段に生きやすかったことはまちがいないようです。
法的にも政治的にも経済的にも教育的にも、結婚や家庭生活でも、人づきあいでも、聾者であることで不利になることはまったくありませんでした。むしろ聾学校への助成金が受けられるので、島の健聴者よりちょっと高学歴だったというのも興味深いです。
社会福祉的な話かと思ったので、SF作家の円城塔氏が帯に推薦文を寄せているのは不思議な気がしたのですが、島という孤立した世界で手話を媒介とした特殊な社会システムが形成されているのは「手話星」に住む「手話星人」の物語みたいで、ちょっとSFっぽくもありますね。
また先祖をさかのぼることにより、近親交配によって聾の遺伝子が受け継がれていくメカニズムを解明し、最終的にはマーサズ・ヴィンヤード島の手話文化の起源をつきとめるくだりは、ミステリーのようでもあります。
手話ユートピアの理由
まず言えることは「マイノリティが一定の割合を超えると社会は変わりうる」ということでしょう。
マーサズ・ヴィンヤード島の場合、健聴者に対する聾者の割合が地域によっては25人に1人、多いところではなんと4人に1人にもなったそうで、こうなると誰もが必ず親戚や友人、職場、ご近所に聾者がいる状態なわけで、自然と対応を迫られることになります。
ただそれだけでは説明できません。いくら比率がよそより高いとはいえ、聞こえる人のほうが圧倒的に多いことに変わりはありません。マーサズ・ヴィンヤード島の人たちがとくに人権意識が高いとか、ダイバーシティに理解があるとか、誰にでも親切だとかでもなさそうです。
住人の証言で「島では手話ができるのが当たり前で、できないと恥ずかしいという感覚があったので、誰もが習おうとした」という部分は重要です。
理念ではなく、常識や慣習のチカラなのですね。
時代の流れで島の観光地化が進み、島外出身者との交流が進んだことで遺伝的な聾者は生まれなくなり、それとともに手話ユートピアも喪われてゆきます。
社会システムが障害をつくりだす
もし私たちが「フクロウ族」の支配する惑星に住んでいたらどうでしょう。
人口の9割はフクロウで、人間は1割しかいません。もちろん国会議員も企業経営者も官僚もフクロウです。
その社会では、翼がなく空を飛べないことや、暗闇で目が見えないことは「障害」になってしまいます。もし人間族が「夜暗いので照明を設置してほしい」などと請願しようものなら「そんな少数の人間のために使える予算はない」と一刀両断です。航空機の開発も進まないでしょう。
でも実際には、マイノリティが多数派に合わせて社会に適応するより、多数派がマイノリティに配慮するほうが合理的ではないでしょうか。
聴覚障害者が無理解な社会に適応する負担に比べれば、マーサズ・ヴィンヤード島の健聴者が手話を学ぶことは、そこまでの負担ではなかったはずです。ただ耳が聴こえないだけで何の問題もない住民を飼い殺しにすることは、島全体にとっても損失です。
むしろ健聴者も手話文化の恩恵を受けていたとも言えます。面白いことに島では健聴者同士が手話で話す場面もよく見られたそうで、静かにしなければいけない場面でこっそりおしゃべりしたり、声が届かないほど遠くにいる人と話したり、とくに主要産業だった漁業で、船上での通信に便利だったそうです。
現代の社会では「耳が聴こえない」ことが障害なのではなく「少数派が多数派に合わせて適応するか、それができなければ孤立するしかない」ことが障害なのかもしれません。