リーダーシップとはなにか? -ブルックリンのジャズクラブで学んだこと-
Ornithology Jazz Club (オーニソロジー・ジャズクラブ) を訪れたときのこと。ここはブルックリンの街角にあるヒップなジャズクラブ。オレンジ色の照明も控えめな暗がりの中で老若男女、なんなら人種までも入り乱れて夜な夜なセッションが続く。そんな粋な空間だ。
ぼくは以前このジャズクラブを訪れたときにそのディープさにシビれて随分とくらっとしまった (以下の記事に書きましたけれど)。それ以来「また行かなくては」とこころの奥底で誓っていて次に行けるタイミングをずっと見計らっていた。そうこうしているうちにひょんなことからニューヨークに行く用事が出来た。そんな流れで自然とまたこのジャズクラブに足を運んだわけだ。それがことの経緯だ。
ジャズクラブで起きた事件
会場に入ってビールを飲みながら開演を待つ。お店の中は既にたくさんの人で溢れていた。相変わらず人種のるつぼといった様子で白人も黒人もアジア人もグチャ混ぜ。みんなワイワイと喋りながら開演を楽しみに待っている様子が手に取るように分かる。この日は金曜日 (Happy Friday) の夜ということもあってお客さんも開放感に満ちているように感じた。
ワクワク。ぼくも期待に胸を膨らませながら今か今かと待つ。今日はギター、サックス、ピアノ、ベース、そしてドラムという5人編成による演奏だ。さて一体どんな熱い演奏を繰り広げてくれるのだろうか?
開演時間になった。まだ始まる様子はない。
まあジャズの演奏なんてかっちり時間通り始めてもサマにならないかもしれない。少々遅れるぐらいが格好がつくものというものだろう。
開始時間から20分経った。でも演奏は一向に始まらない。それどころかミュージシャンの姿さえ見えない。会場にいるお客さんからも「まだかね?」という会話が漏れ聞こえてくる。どうしたのだろう?
するとギターを抱えたバンドリーダーと思われる人物がマイクの前に立って話し始めた。よし、やっと開演か。そう思った矢先彼はタジタジとした様子でこう言った。
なんとドラムが遅刻した。というか後になって分かることだけど結局彼は会場に姿すら現さなかった。いわゆるドタキャンというやつだ。あちゃー。
ジャズにはドラムがいない編成(ドラムレス)というのはあるっちゃある。でも今回の場合は「ドラムがいる」という前提で選曲したり準備もしたりしていたに違いない。バンドリーダーの彼の様子からこの事態が想定外であり不安に満ちたものだということがひしひしと伝えわってきた。
演奏が始まる。
そうは言ってもジャズ・ミュージシャンなのだから楽譜があれば即興でなんとか出来るだろう。そんな信頼を寄せているのか、会場にいるお客さんの間にもそこまで不安がっている様子もなかった。
しかしだ。
演奏が始まると火を見るよりも明らかだった。ぜんぜん演奏が合っていない。チグハグとしか言いようがない。バンドリーダーのギターリストは明らかに戸惑ってる。「どうやってこの演奏をまとめようか」と考えあぐねている様子が、彼の落ち着かない指遣いや他のメンバーとのおどおどしたアイコンタクトからありありと伝わってくる。ピアノとサックスはというと「しゃーない」という様子で大して慌てていない。「ハズレの現場」とみなしたのだろう。彼らの表情からはモチベーションも然程ない様子が伺える。「こういう現場もある」と受け入れて卒なく仕事を済まそうとしてるのだ。
会場のお客さんもソワソワしはじめた。「おい、この演奏大丈夫か?」とヒソヒソと話している輩もいる。こんなにも不揃いで調和の取れていない演奏に耳を傾けているのだから当然の結果だ。会場にピリピリとした緊張感が高まる。
どうする、これ?
その会場に一人だけ狼狽(うろた)えていない輩がいた。ベーシストだ。
パーマがかった黒髪と黒いジャケットが印象的な男。見るからに落ち着き払っていて物静かそう。ユダヤ人っぽい白人の彼は静かに下を向きながら目を瞑って演奏している。どこまでも静かに。集中して。
ここからなにが起こったか?それは周りのギター、ピアノ、サックスの3人がベーシストの演奏に耳を澄ませるようになった。そしてベースの演奏にそれぞれが自分の音を乗せるようにして演奏をし始めた。ベースが文字通り"下支え"しはじめたのだ。
すると不思議なことが起こった。演奏は少しづつ調和をとり始めた。そしてそこからグルーブというものが生まれていく。演者はソロに集中して周りがそれをタイトな演奏で支える。どんどんと演奏は盛り上がっていく。リズムの土台となるドラムがないのにも関わらず演奏は一つにまとまっていく。4人は鋭い目つきでお互いにアイコンタクトをしながらソロを回していく。これでもかというほど互いのフレーズははまっていく。
気付いたら1曲目が終わっていた。すると会場からは割れんばかりの拍手が起こった。ものすごいカタルシスを会場全体が共有していた。
会場の雰囲気は別の緊張感へと様変わりしていた。「これ大丈夫か?」という疑問から「これすごくない?」という感激へと。
ベーシストに目をやる。すると彼はクールに次の曲の楽譜を取り出して演奏に取り掛かろうとしている。いつも通りといった様子で。
山口周さんの本
ぼくはこのブルックリンのジャズクラブで起きた事件にいたく感動した。チグハグな演奏がどんどんと一つの作品になっていくドラマチックな展開は胸熱だった。でもそれ以上にぼくのこころを止めたのは、言うまでもなくベーシストの彼だ。あくまでも冷静に仕事をする彼の姿から「リーダーシップとはなにか?」ということについて深く考えている自分がいた。
そして思い出した。ちょうどニューヨークに向かう行きの飛行機で読んでた本のことを。著名なコンサルタントである山口周さんが書かれた「外資系コンサルが教えるプロジェクトマネジメント」という書籍だ。
この本の中では"リーダーシップ"に関する議論がたくさん出てくる。プロジェクトを率いる人材に求められるリーダーシップについて著者の考えが分かりやすく紹介されている。
山口周さんからすると日本のリーダーシップにはこういう問題点があるらしい。
なるほど「上から引っ張っていく」という旧来のリーダーシップ感は百害あって一利なしと。確かに古い考えのように思えますね。
そうなるとあるべきリーダーシップとはなにか?この書籍ではこう定義している。
この本の中では「リーダーの仕事は目的を決めることだ」という話が繰り返し出てくる。目的を伝えることは確かにリーダーらしい仕事だ。どんなプロジェクトを手掛けようと誰かが目的を決めなくちゃいけないし、その役目を果たすのがリーダーだという主張は最もだ。そして優秀な人材が揃っている現場にいるという前提に立つものの「目的さえ決めてしまえばあとはなんとかなる」といった話も書いてある。
でもしばらく考えているうちに「ん?待てよ?」と思っている自分に気づいた。
「目的を決める」って現実的には立場が上の人が決めることがどうしても多くない?現場で働いている下っ端の人に果たして「プロジェクトの目的を決める」という重要な役回りが期待されているだろうか。そう考えるとリーダーシップって「リーダー」という立場についている人だけに与えられた権限なのだろうか?
そして「目的さえ伝えればあとはなんとかなる」って本当だろうか?
ぼくは首を傾げる。そんなにシンプルな話じゃない気がする。日本のベンチャー企業や外資系企業、そして今いるアメリカの会社で散々プロジェクトマネジメントを経験したきた自分にとっては「そうですね」と相槌を打てない自分がいる。
リーダーシップを考える上で「目的を伝えること」の重要性はぜんぜん否定しない。だけれど「目的を伝えなくても出来るリーダーシップ」だってあるはずだ。
なお、著者へのリスペクトを示したいので誤解がないように言っておく。この本はとても興味深く読んだし、プロジェクトマネージメントを学ぶ上で非常に参考になった。でも読書の本質というのは「書いてあることを鵜呑みにする」のではなく「自分なりの考えを育む」ことにあるはず。というわけであくまでぼくが考えたことを書いています。ご理解のほど。
ベーシストがやろうとしていたこと
さて、ブルックリンのジャズクラブに話を戻したい。予想だにしないドラムのドタキャンによって残ったメンバーで演奏する羽目になってしまった4人。右往左往するギター、ピアノ、サックスの3人をよそ目に1人クールに仕事をこなす輩がいた。ベーシストの彼がやろうとしていたことはなんだったのだろうか?
それは「今自分にできる役割を全力で果たそうとしたこと」に尽きると思う。
ベーシストの彼は周りを引っ張ろうとしたのではなく自分の担当を全力でこなすことに集中した。演奏中ということもあって言葉でなにか指示するわけでも「こういうことを目指そう」と指針を示したわけでもない。ただ彼は黙ってウッドベースに向き合い彼が出来るベストの演奏をしようと努めた。
こういう「周りに振り回されずに自分が正しいと信じることを全うすること」にも確かなリーダーシップを見出すことが出来ないだろうか?
どんなに小さいことでもいい。例えば「学校でみんなは彼のことをいじめているけれどそれに私は加わらない」とか「会社でみんな本当は"やっちゃいけない"って知っているけれど暗黙の了解として許されていることがある。自分だけはそれに加担しない」とか。
もちろんAppleを創業したスティーブ・ジョブズみたいにビジョナリーだったり、イーロン・マスクのように「人類を火星に連れて行こうぜ」みたいな壮大なゴールを提示できたらそれに越したことない。でも周りの人になにかをするための目的や目標を伝えなくても、十分に他人を動かすまでの影響力をもたらすことは出来ると思う。
リーダーシップ開発でよく出てくる言葉に「一隅を照らす」というものがある。天台宗を開いた最澄の言葉で「一人ひとりが自分のいる持ち場で、自らが光となり周りを照らしていくことこそ、私たちの本来の役目だ」という考え方だ。言うまでもなくベーシストがやろうとしていたのはまさに「一隅を照らす」ことだった。
どれだけプロジェクト・マネジャーがあれこれ言ってもまとまらなかったのに、1人のデザイナーやエンジニアの献身によってチームがダイナミックに動き出すという局面をぼくは何度も見てきた。
自分が背負う役割そのもの ("What") はとても小さいかもしれない。でも「自分がどう動くか」という"How"次第で、その役割をはるかに超えて人々に影響をもたらすこともあると思う。
世の中は効率をとにかく追求する社会になっているから、こういう風に愚直にやっている人はなんだか損をしているように見えることもあるかもしれない。「もっと要領よくうまくやっていく」という方が魅力的に映るかもしれない。でもあなたが思っている以上に周りはあなたの振る舞いを見ていて、それに勇気づけられたり(もしくは逆に落胆したり)するという世界観があるのも事実。
だから答えはどういう価値観に立つかで自ずと変わってくると思う。それはリーダーシップということすら超えて「あなたはどう生きるか?」という問いと解釈することも出来るかもしれない。
今日はそんなところですね。ここまで読んでくださりありがとうございました。
ジャズクラブのお隣にあるCafe Ornithologyで。渋いメンツによる『チュニジアの夜』を聴きながら。
それではどうも。お疲れたまねぎでした!