SNSの誹謗中傷に負けるな、人付き合いの処世術、言葉は諸刃の剣
2012年に開催されたロンドンオリンピックは史上初の「ソーシャルメディア五輪」とも呼ばれ、国際オリンピック委員会も選手が自ら情報を発信することを奨励した。ツイッターやフェイスブックなどを通じて選手とファンが直接交流できることは、応援を受けた選手のモチベーションアップにつながることはもちろん、ファンにとっても、選手を身近に感じられるのはうれしいことである。今では選手自らが自分のプライベートな部分を含めてSNSで発信して人気を博している。
自分で自分のことを発信する分には特に問題はないであろう。その人に関心のある人が見るだけだろうから、関心がなければ見ないだけのことだ。しかし、内容が他人の言動や世相に対する感想や意見めいたものになると物議を醸すだけではすまないことがある。事実、ロンドンオリンピックではツイッターで差別的な書き込みをしたとしてオリンピックへの出場資格が取り消された選手がいたし、福島第1原発に関して根拠のない暴言をツイッターに書き込んだとして失職した市議会議員もいた。最近では迷惑動画を投稿して数千万円の損害賠償訴訟を起こされた高校生もいた。SNSで発信するということは、自分の思いや考えや行動を人に知って欲しいからだろうが、あまりにも独りよがりで思慮に欠ける投稿は身を滅ぼすことにもつながりかねない。
人の批判でも悪口でも、気の置けない仲間同士なら何の問題もなく、ひょっとしたら楽しいひと時を過ごすことができるかもしれない。上司の悪口ほど酒の肴に合うものはないとはよく言われることである。しかし、一般に人の悪口を聞くのはあまりいい気分ではない。人を貶めたところで自分が道徳的な高みに昇れるわけでもないし、仮に悪口の中身が事実であったとしても、それを聞く相手にとっては関心がなく不愉快なこともある。悪口を聞いてくれる相手を選ばなければならないのは言うまでもないことだが、私たちが人を評価するということは、その評価によって自分もまた評価されるということを、私たちはもっとよく理解すべきである。
人が心の中で何をどう思っているかは知る由もない。しかしそれはそれでよいのであって、善悪合わせもつ人の心がもし丸見えならトラブルが絶えず、人が人間らしく生きて行くのは不可能である。細菌やウイルスがもし目に見えたら、と想像してみればそのことは明らかである。
シェイクスピアの『ハムレット』の登場人物であるポローニアスという宰相が自分の息子のレアティーズに処世訓を垂れる場面(第1幕 第3場)にGive thy thoughts no tongue「腹に思うても、口には出さぬこと」(福田恒存訳 以下同じ)という台詞がある。ある問題に対して相手が自分と同じように受け取ってくれるかどうかが定かでない以上、よい人間関係を築くのには必要な処世術と言ってよいであろう。この台詞の後の方にはGive every man thy ear, but few thy voice; Take each man’s censure, but reserve thy judgment.「どんなひとの話も聞いてやれ。だが、おのれのことをむやみに話すではない。他人の意見には耳を貸し、自分の判断はさしひかえること」という台詞が続いている。相手が物事をどう捉えどう考えどう感じているかが分かれば、あとはその人とどういう人間関係を結びたいかで対応は決まって来る。価値観が同じなら親友になれる可能性が高いし、たとえ主義主張が違っていたとしても、こちらの考えが相手に分からない以上敵にはなりえない。
しかしながら、ネット社会では、匿名性をいいことに、自分の心の内をさらけ出して恥じない人が現れている。直接口にすることが憚られるようなこともネットに書き込むことは心の中のつぶやきと同様簡単らしく、それが発覚して大騒ぎになって初めて事の重大さに気づくということが続いている。
「腹に思うても、口に」しなければ、その人の知性や心の内は分からない。テレビはほとんど見ない私だが、たまにネットニュースに出ている解説やら識者のコメントやらを読むと、「黙っていれば、頭が空っぽだと分からないのに」と思うことがしばしばである。よく分からないことについては黙っておくがいい。沈黙は一つの処世術である。
ネット上での誹謗中傷が問題になって久しい。対等の関係で言論を戦わせるのなら問題ないが、中には訴訟沙汰になったり、ネット上の匿名の書き込みを苦にして自ら命を絶ったりする人もいる。誰が書いたか分からない、人格を持たないネット上の書き込みは見なければいいし、気にすることもないと私などは単純に思う。
とは言え、自分の命を絶つほど自分に対する評価を気にするのが人間というものである。自分は安全なところにいて、他人が傷ついたり苦しんだりしているのを見てほくそ笑むのは人間として許し難い卑劣な行為であって断じて許すべきではない。だが、「許すべきではない」と断じても、アメリカのジャーナリスト、アンブローズ・ビアス(1842-1914?)の『悪魔の辞典』(角川文庫)によれば、幸福とは「他人の不幸を見ているうちに沸き起こる快い気分」であるから、そういう人間性の負の側面に振り回されることのない真の「生きる力」を身につけることが必要なことである。
新約聖書のヨハネによる福音書の冒頭に「太初(はじめ)に言(ことば)あり」(文語訳旧約聖書)という有名な言葉がある。言葉は、人間が物事を考えるときに使う道具であり、他人とコミュニケーションをとるときに使う手段でもある。人間が人間らしい生活を送るためには、「言葉の力」について正しく理解しておかなければならない。マタイによる福音書によれば、イエス・キリストは、40日40夜の断食の後に飢えたとき、「汝もし神の子ならば、命じて此等の石をパンと為らしめよ」と悪魔から試され、「人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より出づる凡ての言に由る」と答えたという。生きる糧としてパンは必要不可欠だが、それだけでは人は生きられない。キリストの言う神の言葉でなくとも、人の温かい励ましの言葉や書物の中の先人の言葉によっても私たちは「生きる力」を得ることができる。それだけ言葉というものは大切なものなのである。
そしてその言葉は凶器にもなり得る。生身の人間の付き合いが薄れ、本来目に見えないはずの細菌やウイルスが、想像力によって増殖して猛威を振るっている。そういう病原体に感染しても発症しないだけの強い免疫力があれば良いが、目に見えなければ気にしなくてもすむものが、目に見えたら気になって免疫力も低下していくだろう。では私たちはどうすれば良いのか?
2022年に刑法の一部が改正され、侮辱罪に懲役刑と禁固刑、罰金刑が追加された。確かに抑止力にはなるだろうが、やはり対症療法にしか過ぎない。これが政治の限界である。お釈迦様は「沈黙せる者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない」(『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫)と述べておられる。とすれば私たちにできることは免疫力を高めることしかない。この場合の免疫力とはしっかりした自分というもの、つまり人生観や価値観、人間観や歴史観といったものでそれは教養に他ならない。深ければ深いほど免疫力は強いことになる。古代ギリシアの哲学者デモクリトスは「教養は、順境にある人びとにとっては飾りであるが、逆境にある人びとにとっては避難所である」(『ソクラテス以前の哲学者』講談社学術文庫)という言葉を残している。
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