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十二国記について

 新作執筆発表からいつ出るのか毎年ホームページを確認して約4年(たぶん)。

来年こそはと煽るような毎年末の挨拶の更新に、もうこのまま出ないのかな…と諦めかけた2018年。
年末に脱稿の知らせがあり、新刊読むまでは死ねぬと歓喜した割に、新刊が出たことに安心して、読んでいなかった。

とりあえず新刊を前に忘れている部分が多すぎるので、3月あたりから20数年ぶりに魔性の子から読み返していって、やっと新刊『白銀の墟 玄の月』の4冊も読み終わり、感無量です。
いや、短編も近い将来出るらしいし、まだ待つよ。

小野先生の描く十二国記のこれでもかというドS展開に、今回も読者の心をバキバキへし折ってくれたけど、このなかなか出ない新刊さえも放置プレイの一環に思えてくる。

十二国記は“異世界もの”だというと、嫌悪感を抱く人(十二国記好き)が多いと思うけど、ジャンルはそうなると思う。
そして、都合よく異世界に転生などできず、その異世界が極端に排他的にできていて異物は異物でしかなく、現実逃避やエゴや妄想など心の闇や弱さを曝け出させて叩き潰し、厨二病の読者の心ももれなくへし折っていく系の異世界ものだけどね…
魔性の子なんて、完全にこっち側の人間とあっち側の人間を分けて、読者を含めこっち側の人間とは明らかに異質なものとして「高里要」を書いていたし、相容れないものとしてお互いが完全に訣別(拒絶)されている。

通して読み返してみると、忘れていた部分も多く、面白さは変わらないが、感じ方が少し変わった部分もあり、それも含めて面白かった。
十二国記はアニメ版も何度も見ているし、ラジオドラマ的なものも聴いているので、どちらかというとそっちの改変の方でストーリーを覚えているところもあったが、原作を改めて読み、アニメ版の賛否あったオリジナルストーリーの部分や構成・編集の妙などもよくわかる。
私は、あれはあれで好きだし、時代が大きく変わる部分(転章部分)の繋げ方がとてもうまく、何より楽俊の獣姿の可愛さは存分に出ていたので満足である。
あの愛くるしさを前にしても、「ねずみ」呼ばわりしているあの頃の陽子の心の荒みようがよくわかる…笑

十二国記の話は、巻を追うごとに王や特別な人ではなく、ごく普通の民が物語の中心になっていく気がする。国のトップの首が挿げ替わろうが、天地が乱れ荒れようが、民には日常があり、それでも生きていかなければならない。国が太平になるに越したことはないが、不遇な時代でも投げることなく一生懸命地道に生き続けなければならず、結局、国の土台となるのは、特別に選ばれた誰かではなく、普通の市井の民であるというのが、語られている気がする。

神仙や妖魔が存在する異世界の話だが、基本的に市井の人々は我々と変わらない人間であり、社会との関わり方や宗教観、感情も類似しているため、現代の社会風刺としても読める。 
例えば道徳観、死生観、価値観や、制度(極刑など)に関して、政治や社会への関わり方、人間と自然との関係性、信仰、階級や差別、善悪、為政者や権力者の姿が、現代社会に重なるように寓話的に、あるいは間接的に描かれていると思う。

著者が、自身の疑問や社会批判を込めて書いたのではないかと感じる部分が多々ある。それは普遍的なテーマを扱ったりもするし、個人的で身近なものであったりもするので、心を物語に導きやすい。

コロナやテレビで流れる身近な戦争などここ数年の大きな出来事を受けて、そこで揺れ惑う大衆や社会に対する変化や疑問がまた新たな十二国記の中で物語として昇華していくのではないかと思った。

十二国記の世界では、子供が木(里木)に実ることから、腹に宿ることがないため自ずと生理がないことになる
王を選び支える麒麟は血の穢れを極端に嫌うが、生理がないことで女王も存在できていることに妙に納得した。(「戦争は女の顔をしていない」でも生理について書いた気が…女でいることで一番煩わしいのが生理だと思うので。)
性別は体格だけの差のようなので、女性も将軍になるし、官吏にもなれる。
国から享受されるものも、供与する責任も、性別の差はなく対等である。
遺伝子上の繋がりはないから子は親に容姿が似ていなくて当然であり、一般的な家業の跡取りは可能だが、王族は存在しなく、王のみは一代の御代で財産も地位も寿命さえも継承はできず、また王になった時点で未婚であれば、婚姻も子も授かることができなくなる。つまり王は、天の所有物になり、右も左も分からないのに天啓を押してつけられたら王になることを断ることはできず、道を失ったと天意が下れば理由もわからず命も奪われる。王が一番理不尽な境遇な気がする。

このように天や神の存在が、ここより明確で有形であり、実在するがゆえに(一般の民には感覚的に形而上の存在であるが…それゆえに民は自分の人生に対して健気で従順である)その存在を知り得るものは“その意志”の曖昧さに疑問を抱き、挑みたくなるのではないかと思う。
十二国記の長編は一貫して、この天意というものに良くも悪くも挑み続ける人間の話な気がする。
そしてこちら側の宗教と違って天界や神の救済は死後世界の話ではなく、同じ世に天界が存在しているのだから現世こそ救われるべき対象となる、また神の采配によって国や生活や人の運までもが明らかに変わる。そんな世の中だったら、不遇であれば明らかに天意の曖昧さに業を煮やすか、もしくは生きていることに馬鹿らしくなり投げやりになってもおかしくない。

で、読んでいくうちにだんだんと、小野先生自身が自分が作り上げた十二国記の国の仕組み(ことわり)に憤りを感じて、矛盾や曖昧さを登場人物を使って自分(天帝)に対して挑んでいるんじゃないかとさえ思えてきてしまった。

少年少女向けの華やかな王道のファンタジーだと思って読んだら、政治や思想が色濃い重厚で一見地味な話に感じるかも知れないが、だからこそ面白い。短編集の『丕緒の鳥』は今回読み返して、このテーマを十二国記でやるか…と、このシリーズの面白さを再確認した。

話したいことは山ほどあるが、ネタバレしたくないので、この辺で。

小野先生は体調が万全ではないとのことだが、長年の読者の大きな期待を一身に背負い、魔性の子から始まった話がここまで壮大で重厚な世界観で堂々幕を閉じたのも凄まじく、その大変さは計り知れない。もう十二国記は描きたくないってならないで欲しいと願うばかりである。
魔性の子で意図的に極端に抑えられた感情描写しかされず最終章までほとんど何を考えているかわからなかった根暗で不気味な少年(高里)が、20数年(物語時間だと6年くらい)の時を超え、こちらまで苦しくなる傷を抱えて痛みと共に、圧倒的な自我を発露させてくるところに、カタルシスを感じるのも、長年の読者の醍醐味である。

で、遅れて読んだから、読者特典の短編を手にいれてないので、近い将来に出版の確約のある短編がでるそうだから、また新刊を待ちます。
多分、十二国記ファンはみんな待つのに慣れているし。


話は変わるが、綾辻行人先生のモルカーTwitterが面白すぎて、奥様の小野不由美先生がお仕事の気晴らしにお手製でプイプイを作っているらしく、その種類がどんどん増えていってて、なんか微笑ましい。というか器用すぎる…そして面白すぎる。
仲良しの法月さんが発端らしいが、京極さん、有栖川さんにも侵食してて面白い…みんなホラー・ミステリー作家の大御所だけど、なぜにモルカー…笑

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