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モロッコで考えた、ツーリズムとお金のこと。

(少し前に書いた文書だけどそのまま載せちゃいます。)

あたらしいことにたくさんたくさん出会って、じぶんの中で新鮮味のあるコトバが、どんどん どんどん変わっていく。モロッコに来てはじめに受けた印象から書き残したコトバたちは、あのときはすごくシェアしたいと思ったけれど、今ではそのまま載せるには少し違和感がある。これを書き終える前にも、じぶんの負の落ちどころが、また変わってしまうかもしれない。そんなふうに色んなことが目まぐるしい。

モロッコに着いたのは2週間とちょっと前。フェリーとバスを乗り継いで、着いた先のタンジェという港町は、意外にも対岸のスペインとあまり変わらないなという印象を受けた。にも関わらず、ここで自分の中に湧いてきた感覚は、私にすごく色んなことを考えさせた。

一人でモロッコを旅することについて、色んな人が心配を寄せてくれて、旅の注意が書いてあるブログとかをいくつか読んだ。大抵の人は優しいけれど、気をつける必要があるよ。優しく話しかけてくる現地の人は信用しないほうがいいよ。そんなことが書いてあった。

次の日一人で街を歩く。待ち受けていたのは、驚くほどかわいい街並みと、コロナ コロナと言って指を指してくる子どもたち。
はじめて、"差別を受ける"という経験をしたんだと思う。子どもたちのそういう行動自体には、深い悪意があるわけではなくって、なんだか知らないけど面白くってやってるんだと思う。でもその裏にはテレビとか大人とかの影響があるのかもしれない。バスに乗ったときとかに感じる女の人の視線とかが、ああ自分はここでは外国人なんだなぁって思わせる。

海岸線が一望できる岩場に来た。素直に、今までの人生で1番美しい海だと思った。
ああ、ここも数年のうちにリスボンとかと変わらないような観光地になるのかもしれないなと思ったとき、なんとも言えない悲しい気持ちになった。ツーリズムは、常に、新しい、まだ観光地化されていない、それでいて物価の安い場所を探し求めて、世界中のあらゆる場所で、その土地の文化と、現地の人の暮らしを、どんどん"消費"していっている。そして、それを消費しきったら、「あそこは観光地化され過ぎててイマイチだよ。」とか言って、新しいターゲットを見つける。
土地も食べ物も労働力も、あらゆるものは限られているのに、消費するためだけにやってきた観光客を支えるだけのキャパシティが、どうしてその土地にあるだろうか。
お金だけ持って観光客が押し寄せてきて、モノも土地も足りなくなって。それなのにお金だけが増えていって。自分たちの暮らしを支えることに従事していたであろう人たちが、観光客の相手をするようになって。
これでどうやって現地の人の暮らしは豊かになるだろうか。
私達が千円で彼らから買えるものと、彼らが同じ千円で私達が買えるものは全然違っているのに、私達は彼らから毎日毎日、いったいなにを盗んでいるんだろうか。



"お金持ちの国"の私達が、"貧しい国"でお金を落としすことは"貧しい国"を豊かにしている。ものを買ってお金を落としてあげることは良いことだ。そんなふうなイメージがあったけれど、それは本当にそうなんだろうか。何か良くできたまやかしなんじゃないだろうかという思いつきが頭を離れない。

かつては現地の人の生活感でいっぱいだっただろう旧市街は、今では、観光客向けのホテルとAirbnbと、どこの店でも同じものを置いているお土産ものやさんが並び、その代わりに、街の外側に、コンクリートのアパートメントが、今なおどんどん建設されている。私達が、彼らを、歴史深い旧市街から追い出した。そんな感覚がよぎった。
リスボンでは10年前はホームレスの人を見たことがなかったけれど、今ではホームレスの人がたくさんいるって知り合いから聞いたのを思い出した。
何も豊かになっていないのに、物価だけがはね上がったら、その暮らしから追い出される人たちがいる。
ミヒャエルエンデのモモの灰色の人たちが、知らぬ間にやってきて、人々から時間を盗んでいる。そんなイメージがフッと浮かんできた。

宿の人から聞いた。対岸のスペインはすぐそこに見えているのに、モロッコの人たちは、ビザを取るのがすごく難しいから、すごく近くてすごく遠い存在なんだって。私達はいとも簡単に国境を超えてやってきて、物価の違いを利用して彼らができない贅沢をして、そして、騙されるかもしれないから現地の人は信用するなって、なんて、なんて歪んでるんだ。
アジア人だから"コロナ"な訳じゃない。モロッコ人だからみんな騙そうとしてくるわけじゃない。
私は、犯罪者に騙されないように注意するけど、それは"モロッコ人を信用しない"ってことじゃない。
自分が"観光客"として旅をしていることが、心底嫌になった。それでも私は旅をしている。
人を信用することに挑戦してみたい。現地の人と少しだけ繋がりをつくって、それで、ああアジア人にもこんな人がいるんだって、思ってもらえたらいいのに。そういうことの積み重ねが、学ぶってことだと思う。そして、そのことが、ほんの少しでも、私の、文化の破壊の一端を担いながらも自分の欲のためにツーリストとして旅をしていることへの、罪滅ぼしになることを願う。



次に行ったのはシャウエンという青い村。
お店の人と仲良くなって、一緒にご飯を食べていろんな話をしたり、子供たちに折り紙をおってあげたり、ご飯に招待してくれたおじさんが散髪屋さんで髪を切っているのをひたすら横で見ていたり、更には5千円取られておまわりさんに行ったり(人を信用するってことと、超簡易なロッカーに財布を置きっぱなしにするのは同じじゃないなと思った(笑))、そしたらおまわりさんがコロッケみたいなのくれたり、おばあちゃんの荷物を持ってあげて村の中を歩いたり、小さい村だったので、やりたいと思ったことが少しだけできた気がした。
ここの人は写真を撮られるのを嫌がるので、カメラをぶら下げて歩くのはやめた。

そこから、フェズに行くバスの中で、日本人のご夫婦と出会った。なんか同じ匂いがする人がいるなぁと思ったら、なんとフェイスブックの共通の友達は10人以上でなんか私の友達みんな知ってるんじゃないかってくらい近い人たちだった。世界って狭い(笑)
山道を走る。はじめは緑がほんとに美しくって、畑をしている人の姿が見える。あぁ豊かだなぁって思う感じ。
しばらくすると、人が立ち入る余地もないくらい、延々とどこまでも続く広大な畑。木が生えているところもところどころある事を見ると、もしかしたら木を切り倒して畑にしたのかもしれない。季節もあるだろうし、元々の気候や土地柄もあるだろうけど、すごく乾燥して見えた。木を切ると雨がふらなくなるって聞いたことがある。
でもこれは想像でしかないから、昔の姿を知っている人の話を聞いてみたい。ああ、私達が食べていた食物はこうして作られていたのかと思った。
フェズでは泊まっていた宿が寒くって、疲れが出たのか急に体調を崩して、トイレも行かず15時間くらい寝たら元気になった。
フェズでは旧市街をホテルに行くために一回歩いただけだったけれど、なんかあまりにも観光客としてしか見られていないことにすごく疲れた。ここで人を信用するのはできないかもしれないと思った。
商業の中心地のカサブランカは、何か宿も高いしヨーロッパみたいだった。ここではあんまり自分が外国人なんだって伝えてくる目に出会わなかった。
バスで15時間、モロッコの端っこに向かう。途中山道を走っていたら山の上に雪を見た。崖崩れがあったんだろう、ずっと道路が工事中で、ガタガタ道を走った。

泊めてもらったモロッコ人の彼は、英語も流暢でとても賢い人で、よく冗談を言ったけれど、色んなことを話してくれた。 

ちょうどハタチの誕生日の日に、みんなで砂漠のツアーに行った。砂漠の中にはオアシスがあって、地下に川が流れていて、そこで井戸を掘ったら水が出る。想像していたよりも豊かな暮らしがそこにはあったのかもしれないと思った。
ちょうど夕日の沈む時間に、ラクダに乗って砂漠の中を歩いていた。目の前に広がる、静かで、幻想的な、つい涙が溢れてきそうなほど美しい景色を眺めながら、ずっと、ずっと、罪悪感みたいなものを感じていた。
なんで私は、なんの苦労もしていないくせに、こんな世界の反対側で、こんなにも簡単に、こんな美しい景色を見ることを"許されている"のだろう。
私よりもよっぽど賢くて思慮深い彼は、世界を見ることを許されていないのに、なんで私はこんなに簡単に、世界を旅することを許されているんだろう。


彼は自分の写真は撮らないでと言った。許可なく勝手にカメラを向けてくる写真家たちに、もう疲れてしまったって。自分たちは動物じゃないよって。

私は星野道夫のアラスカの写真と文章が大好きだ。
旅の写真家はすごいし、世界のどこかの民族の写真を撮っている人もすごい。
でも写真を撮ってそれを人に伝えるっていうことは、すごくすごく責任のあることだ。見た人に感動を届けるってことは、見た人に「私もこんな体験をしてみたい」って思わせることかもしれない。でも写真家である彼らは、大きなリスクを常に背負いながら、大きな運と偶然の出会いの中で、奇跡的にその写真を撮ることを許された人たちであって、同じことを夢見た人みんなに同じ機会が与えられることはない。みんながその感動に簡単に手を伸ばしてしまったとき、そこにある文化はいとも簡単にも崩れ去ってしまうだろう。
写真を人に伝えるっていうことは、そこに写る人の暮らしや文化を伝えるっていうことで、そこの人たちと十分に関係を築けていなかったら、彼らの暮らしを十分に知っていなかったら、写真だけバシャバシャ撮って、そうやって世界の裏側の写真をSNSに載せるのはカッコいいけれど、私はまだ、ここで写真を撮ることを許されていないと思った。
今まで自分はそういうことを気づかぬままにずっとしていたのかもしれない。

私は旅をすることを渇望していたわけじゃない。そのために何か苦労をしたわけでもリスクを負ったわけでもない。それなのにこうして余りにも簡単に手を伸ばしてしまったことに、ずっと罪悪感を感じているのかもしれない。

私は家族や友達や、目の前の美しい瞬間を写真に残すことが好きだ。でも旅をするフォトグラファーにはならないかもしれない。



コロナウイルスの騒動で、たくさんの人が旅を中断せざるを得なくなって、私は今、モロッコで身動きが取れなくなってしまった。
すごく困ったんだけれど、でも同時に、今までが余りにも簡単に旅できすぎていたのかもしれないとも感じる。私たちはこんなに簡単に世界中を旅することを許されるべきじゃないのかもしれない。
今回、外出禁止とか国境閉鎖とか、もうお金の問題じゃないなってことが次々と起こった。でも本来は、お金を持っていようとなかろうと、出来ないことは出来ないままである方がいいのかも知れない。
ツーリズムは文化を破壊している、飛行機は環境を汚染している、知ってはいたのに止められなかったことが、今ちょっと止まりかけているとしたら、この恐ろしい状況の中で、ほんの少しの救いになったら良いのに。

食べ物が手に入らなくなるかもしれないって心配をしたときに、色んなことを考えた。例えばそこにパンが一人一つ分しかなかったら、それを分け合うしかなくって、みんなが一文無しだろうと、百円持っていようと、2百円持っていようと、パンの値段は変わったとしても、もらえるパンの量は増えない。でもこのお金に偏りがあったとき、悪意なんかなくったって、誰かがちょっと多くもらう代わりに、誰かが貰えなくなることが簡単に起こり得るのかもしれない。足りるはずのものが足りなくなる。お金を利用してものを"分け合う"のは、もしかしたらすごくすごく難しいのかもしれない。何を買うことができるかにフォーカスしすぎたときに、私たちは気づかぬまに他の人の何かを奪ってしまうかもしれないことに、常に注意を払わないといけないのかもしれない。
私はここでは少し贅沢ができるけれど、そんなことは本来はできないことなんだと思う。

私達が必要なものは、シェアリングの知恵じゃないかな。

モロッコが完全にシャットダウンしてしまう前に、モロッコを出国することも考えたけれど、航空券がバカ高かったからやめた。でももしこのまま一ヶ月以上ここにいることになって、それ以上の滞在費がかかってしまったとしても、その2つの選択肢って本当に同じ一つの基準で測ることができるものなのだろうか。
自国民を脱出させるために今回ヨーロッパの国々が大金を叩いたとき、そのお金でもっと医療設備を整えたりできるのにって思ったけれど、本当にそうなのだろうか。飛行機を飛ばすためのエネルギーも人材も、病院を建てるために必要なものと全く違っているのに、お金を右から左に動かすだけで、それが解決されるのだろうか。たぶんそうやって早急に物事をどうにかしようとしたとき、それはまた別の問題を生むんじゃないかって気がする。

経済の何を知っているわけでもないから、とんちんかんなことを言っているのかもしれないけれど、これが、私の人生で初めての危機(笑)を乗り越えようとしている間に、私の中にずっと漂っていたこと。



みんなが家に閉じ込められてるこの瞬間に、みんな頭と知恵をちょっと絞って、このちょっと歪んだシステムをもうちょっとマシなものにするためのアイデアを生み出せたらいいのに。

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