【ショートショート】可愛すぎる依頼人
ボロい雑居ビルの三階。エレベーターを降りて、一番奥にある部屋が私の仕事場だ。
「東池袋探偵事務所」
という金属看板がドアに打ち付けてある。
私は部屋に入って、いつものようにコーヒーを淹れながら、
「掃除しなくちゃな」
と呟いた。
トントン。
ノックの音がした。
「どうぞ」
入ってきた依頼人をみて、私はなにかの間違いではないかと思った。二十歳くらいの女の子がシュナウザーの子犬を抱いて立っている。女の子も子犬もびっくりするくらい可愛い。
依頼人はソファに腰掛け、
「主人の調査をお願いしたいのです」
と言った。
「調査というと」
「浮気調査です」
女の子が結婚していることも信じられなかったが、その口から浮気という言葉が出てくるとは。非現実的な気がしたが、現実的に私は家賃に困っている。依頼を受けることにした。
調査の結果、夫はたしかに浮気をしていた。なぜだと問い詰めたかったが、それは私の任ではない。私は淡々と調査結果を報告した。その後、彼女の家庭がどうなったのかは知らない。
十年後、私はやはり「掃除しなくちゃな」と呟きながら、コーヒーを淹れていた。
トントンとノックの音がして、女の子が入ってきた。デジャブかと思った。いや、腕の中のシュナイダーがすっかり歳を取ってヨボヨボになっている。女の子は若々しいままだった。
「十年前にいらっしゃいましたね」
と私はたずねた。
「はい」
と、依然として二十歳にしか見えない彼女は答えた。そして、
「また浮気調査をお願いしたいのです」
と悲しげに続けた。前の夫には離縁され、新しい夫に女の影がみえるという。
私は調査を行い、浮気の証拠を提出した。
十年後、またノックの音がした。かならず、夏の暑い日なんだよなあと思いながら、私はドアを開けた。予感の通り、女の子が立っていた。もう腕には犬を抱いていない。
「あなたは歳を取らないのですね」
「はい。それで薄気味悪がられて、いつも離婚されてしまうのです」
私は浮気調査をした。調べるまでもなかった。
十年後。私はもう探偵稼業を引退したかったが、この日のために事務所を維持していた。
トントンとノックの音がして、軽い足取りで女の子が入ってきた。彼女はやはり二十歳そこそこだった。
いつものやりとりがくり返され、最後に私は言った。
「残念ですがお請けすることはできないのです。もうヨレヨレです」
「悲しいわ。私の数少ないお知り合いなのに」
と女の子は言った。
「さようなら」
「さようなら」
(了)
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