【ショートショート】田中
田中の趣味は街歩きだ。知っている街をしみじみ歩くのもいいが、知らない街を歩くのはもっといい。
休みの日、田中は新宿に出てきた。西武新宿線新宿駅までエスカレーターで上がり、各停に乗り込む。目的地はまだ行ったことのない田中駅。自分の名前と同じ田中町を散策してみるつもりだ。
田中駅はよくあるつくりだった。田中は南口改札を出て、ロータリーを渡り、商店街に入った。八百屋も喫茶店も写真館もヘアカットの店も、すべて店名は「田中」だった。ここの街のひとはどこに行くにも「田中に行ってくるわ」というのだろうか。
住宅街に入っても、田中まみれは終わらなかった。家々の表札がすべて田中なのだ。
田中実。田中スズ。田中啓介。田中澄子。田中好夫。
この調子では、アパートやマンションもすべて田中姓だろう。この街では田中は空気のようなものなのか。
田中家が田中家と結婚し、田中家となってしまうのはまだわかるとしても、田中町の人は町の外の人と結婚しないのだろうか。後藤さんとか鈴木さんが引っ越してくることはないのだろうか。
ぶらぶらと十分も歩いたころ、田中は交番の前で警官に呼び止められた。職質だ。
「失礼ですが、なにか身分証明書はお持ちですか」
田中は免許証をみせた。
「田中さんですね。はい、けっこうです」
名前だけを確認し、警官は去って行った。
田中はぞっとした。偶然田中姓であったからいいが、それ以外の姓であったらどんな目にあったことか。
田中の目は三階建てのモダンな家に吸い付けられた。正確にはその表札に。表札の字はよく見えなかった。後藤と読めなくもない。しかし、後藤の文字は滲み、薄れ、その下から田中の文字が黒々と浮かび上がっているのだった。まるで後藤姓が分解消滅し、田中姓に生まれ変わっているかのようだ。
疲れを感じた田中は、何軒目かの田中珈琲店に入った。机の上のメニューを見る。
上から下までずっと田中が続く。一番上の田中はスタンダードな味、次の田中は酸味爽やかな味、さらにオレンジの香りがする田中、苦み引き立つ田中、バランスのいい田中、水出し田中と続く。
田中は六番目の田中を指さした。
胸に「田中」のネームプレートをつけたウェイトレスは、
「田中でございますね。ホットでよろしいですか」
と聞いてきた。
田中はうなずく。
田中は田中を飲み干し、田中を出た。
地平線に真っ赤な田中が沈むのが見えた。
(了)
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