【ショートショート】奈落の家
「あなた、大変たいへん」
妻が仕事部屋に入ってきた。
「お隣の奥さん、おめでただって」
「そりゃ、めでたい」
「もう三ヶ月だって」
「ふうん。体重が増え始めるのって何ヶ月目くらいから」
「そうねえ。一二週目くらいじゃない」
「じゃあ、そろそろか」
「そうね」
田中は考え込んだ。お隣の中田さんの奥さんの体重があまり増えると、家が傾いてしまう。
田中家と中田家は、谷に渡された太い綱の上に建っている。二本の天秤棒の上に建築されているので、両家の重量がつねに均衡していないと、奈落に墜落してしまうのだ。
だから、買い物をするときも外出するときもつねにお互いに相談しながら行動する。
なぜそんな危ないところに住んでいるのかと問われれば、一戸建てに住みたかったからとしかいいようがない。団地育ちの田中にとって一戸建ては生涯の夢であった。しかし、自分の収入と妻の収入を考えてみれば、こんな危ない家しか購入できなかったのだ。
「こまめに体重の増加を教えてもらわないとなあ」
「そうねえ。その分、なにか買わなきゃね」
「いつ捨ててもいいものがいいな」
「雑誌なんかどう?」
「おおっ。紙の雑誌なんて、しばらく見てないなあ。それはいい。いらなくなったらすてちゃえばいいんだし」
ある日、中田さんの奥さんが街の産婦人科にでかけるのに付き添って、妻も外出した。
「あなた、びっくりよ」
「どうした」
「私も妊娠してた! まだ一ヶ月だって」
「わあ。そりゃめでたい。重量問題も解決だな」
「体重の増え方はひとそれぞれだから、わからないけどね」
切迫流産の危険性があるということで、中田さんの奥さんは産婦人科に入院することになった。
「おまえ、どうする」
「私も実家にいこうかな」
田中と中田は独身状態になった。中田は羽目を外しているらしい。夕方になると電話がかかってくる。
「田中さんですか」
「はい」
「今日は飲んで帰ろうかと思いましてね」
「今日も、でしょう」
田中は憮然として返事する。それまで家に帰れないではないか。
「何時頃、お帰りですか」
「十二時頃かなあ」
「そんなに遅く」
「ま、ひとつよろしく」
田中は妻の実家に顔を出すが、あまり遅くまでお邪魔するのは迷惑だ。ファミリーレストランでひとり時間を潰す。
そんな日々が続き、やがて中田は使い込みが発覚して、会社をくびになった。即刻離婚である。
「えええ」
田中は絶叫する。
「おれ、うちに帰れないじゃん!」
赤ん坊の世話に必死の妻は、
「お隣の奥さんが再婚するのを待ちなよ」
と言い放つ。
田中は谷の淵に立って、空中に建つ我が家を眺める。せっかく買った自分の家なのに、いったいいつになったら帰れるのか。
頑張れ、隣の奥さん。
(了)
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