【ショートショート】かんな沼
なにかにハマることを「沼」という。
私のお父さんは「かんな沼」にハマっている。
鉄編に包むと書く、あの鉋だ。
ある日、突然、埼玉県の行田市まで出かけ、大工専門店でひとつの鉋を求めてきたのだ。
その日からお父さんの鉋修行が始まった。
会社から帰ってくると、庭に設置した台にホームセンターで買ってきた分厚い板を置いて、削り始める。しゅっ、しゅっと何度も何度も、取り憑かれたように鉋を動かしている。
土曜日、日曜日は一日中鉋を使っている。
お父さんの「かんな沼」は近所中の人の知るところとなった。
削り取った木の破片、ひらひらとした、かつおぶしの削り滓のようなものが庭中に散乱している。それをお掃除するのが私の役目なのである。母は自分がやるのがいやなものだから、私に押しつけた。
「木ばっかり削って、なにがいいのかしらねえ」
と私に愚痴るが、夫婦なんだから直接聞いてほしい。私にわかるわけがない。
毎日毎日削るものだから、さしもの分厚い板も、薄っぺらくなってきた。
「あと三日」
と父が言った。
「え?」
「あと三日で木がなくなる」
「なくなっちゃ意味ないじゃない!」
と私が叫ぶと、父は不思議そうな顔をして私を見つめた。
「そうかい?」
「そう、だと思うけどなあ」
本職の大工さんが木をぜんぶ削っちゃったらきっと怒られる。だけど、修行だからいいのか。
私は「あと三日だよ」と母に告げた。母もなにか割りきれなさそうな顔をしていたが、「これでお父さんのかんな熱も冷めるかねえ」と言った。
私は近所の人にも「あと三日でお父さんが木を全部削っちゃいます」と伝えて歩いた。三日後といえば日曜日だ。
きっと皆さん、観に来るに違いない。
私と母はおにぎりとお茶を用意した。
案の定だった。
近所の人どころか、どこから噂を聞き込んだのか、黒山の人だかりだ。
お父さんは張り切って朝早くから鉋を取りだし、木を削っている。
切られる木はもう半透明に近いくらい薄い。
昼頃。
お父さんは、最後の刃をしゅっと入れた。
残された薄い木がふわっと舞い上がり、台の上にはなにもなくなった。
「おおーっ」
とどよめきの声が上がり、お父さんは若干、顔を赤らめていた。
次の日。
お父さんはどこからか丸太を仕入れてきた。
また、修行の日々が始まった。
(了)
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