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早く人生の主語を「私」から「私たち」にしたい

 『愛とためらいの哲学』(岸見一郎)の最終章にこんな一節がある。 

 私たちは愛の経験を通じて何を学ぶのでしょうか。それは、人は一人では生きられず、他者との繋がりの中で生きているということです。それを知った時、愛する二人は「私」ではなく「私たち」の人生を生き始めることになるのです。

 これを読んだ時に思った。
 
 やはり私はまだ、人のことを愛したことがないのかもしれない、と。私の人生はいつだって「私」であり、「私たち」の人生など考えたことがなかったのだ。

 愛の形とは人それぞれで、正解がないからこそ迷い苦しむ。
 もしかしたら過去に私は誰かを愛したことがあったのかもしれない。けれど、それを愛と呼ぶのか否かは自分で決めるしかないので、愛とは何たるかを考える時、まず自分の中で「愛はこういうものだ」という確固たる軸を持っていなければ、いつまで経っても自分なりに愛し愛される人生など送れないのだろうと思う。

 私の母は、「愛することは許すこと」と言った。『ひつじが丘』(三浦綾子)からこれを学んだらしい。私も随分昔にこの本を読んだのだが、とにかく身に降りかかる全て(相手の不条理な行いも全て)を許し、受け入れることこそが愛だというようなそれは、愛し愛されるという関係性ではなく、愛を与え続けるという一方通行な印象を受けた。とにかく愛する側が全く報われない。

 自分が愛したことによって、その見返りとして相手からの愛が返ってこなければ、いくら深く愛したとしても自己満足でしかない。愛する人生も素敵かも知れないが、やはり愛すれば、愛した分だけ愛されたいものだ。そうでないと、「私たち」の人生を歩むことはできない。

 悲しいことに、いくら愛したとて、こちらは全く愛されないという状況などよくあるシチュエーションであり、愛したからといって愛される保証など到底無く、愛し愛される関係に巡り合えることがかなり貴重だ。人生の主語を「私たち」にすること、簡単なようだがかなりハードルが高いのだ。

 映画『彼女がその名を知らない鳥たち』は、愛の一方通行によって生まれた、悲しく、そしてひどく考えさせられる物語である。

 蒼井優演じる本当にどうしようも無い女・十和子は、過去に陶酔し、金もなく股も緩い。十和子に惚れ込み、己の全てを捧げているのが阿部サダヲ演じる、果てしなく不潔な男・陣治。
 とにかく陣治の十和子への愛がしつこさを極めている。泥のようにまとわりつき、離れない。観ていて最初はこの愛の形に拒否反応を起こすも、最後には抗えず、結局このどうしようもなくバカでかい愛に打ちのめされてしまうという、今までに経験したことのない気持ちになる映画だ。
 
 十和子は陣治と同棲しているのだが、十和子の陣治への嫌悪感がすごい。でもそれは完全に陣治が悪い。だって本当に清潔感というものがないのだ。
 観た人の98%は、映画開始数分で陣治の限りない不潔さに眉をひそめてしまうだろう。とにかく汚らしさが尋常でない。3日はお風呂に入ってなさそうな皮脂具合、食事の時には不快という次元を優に越す爆音を立て、挙げ句の果てにうどんを食べただけで永久歯が抜け落ちる。3ヵ月は歯を磨いてないのでは?と思わざるを得ない、これまで観た映画の中でも群を抜いて不潔な男、それが陣治。
 スクリーンから成人男性の酸化した脂の臭いと、汗を大量に吸ってそれがまだ乾ききっていない衣類の臭いとを感じざるを得ない。

 十和子は陣治の稼ぎで生活しているにもかかわらず、陣治を罵倒し、拒否する。全くもって陣治を愛してなどいない。十和子が見ているのは、遠い昔の恋人のことや、時計屋の若い男。
 そんな十和子がなぜ、陣治と暮らしているのか。これが物語の鍵を握る。

 十和子は、松坂桃李演じる時計屋の若い男・水島とひょんなことから身体の関係を結ぶ。後戻りができないほど水島に心惹かれる十和子だが、水島は稀代のクズ男。十和子のことなど1ミリも愛しておらず、十和子の熱に次第に応えられなくなり、距離を置こうとする。そんな水島の様子に気付き、不安と絶望に苛まれた十和子は、水島を刺し殺そうとしてしまう。

 一方、十和子に熱烈な愛情を注ぎ、生活の全てを十和子に捧げている陣治が十和子の不貞を知らないはずがない。十和子の全行動を辿る陣治は、十和子が水島を刺したところにももちろん登場する。十和子は水島を刺してしまったことで精神が錯乱、そして、遠い昔にもこんなことがあったのでは……?と消えていた記憶が呼び起こされる。

 十和子は、恋人と別れてしばらく経った後に再会、その際に揉め、この手で殺していた。殺してしまった後、錯乱した十和子は、仕事先で知り合って猛烈なアプローチをかけてきていた陣治に電話で助けを求める。陣治が十和子のもとへ駆けつけると、気を失った十和子と、死んでいる一人の男。何も言わずとも状況を悟った陣治は死体を処理し、十和子を部屋へ連れて帰る。
 目を覚ました十和子は、あろうことか元恋人を殺した記憶がすっぽりと抜け落ちていた。これに対して陣治が思ったのは「しめた」「神様ありがとう」だった。なぜなら、十和子が犯罪者という記憶が呼び覚まされない限り、この世界で殺人があったことを知るのは陣治ただ一人。十和子が思い出さない限り、誰も死んでいない、何も変わらない日常なのだ。

 そんな、自分が元恋人を殺してしまった記憶を蘇らせた十和子は更に錯乱。けれども、陣治はいたって冷静だった。陣治は十和子とずっとは一緒にいられないということを知っていたからだ。十和子が全てを思い出した瞬間に、この世に被害者が生まれ、殺人犯が生まれてしまう。その時には、どうすべきか。陣治はずっと、腹を括っていたのだった。

 陣治は十和子に「俺を産んでくれ」と言い残し、十和子の犯した全ての罪を背負って丘から飛び降りる。十和子はただ呆然と、落下していく陣治を見つめ、視界から消えたと同時に無数の鳥が大きな羽音を立てて飛び立って行くーー。

 この物語、とにかく一つも共感が出来ないのだが、これを愛と呼ばずして一体何と呼ぶのだろうか。
 十和子は陣治に対して、愛を抱いてはいなかっただろう。けれども、全ての記憶を取り戻した十和子が、自分の全ての罪を背負い、世界中でたった一人自分を愛してくれていた男を失う瞬間、何を思ったのか。陣治は限りない愛に溺れて死んでいったが、残された十和子は、陣治の溢れんばかりの愛を掬い、生きて行くことができるのだろうか。

 陣治は確実に、「俺」でも「俺たち」でもなく「十和子」を人生の主語に置いていた。十和子は「十和子」の人生を生きており、陣治が主語の人生はどこにもなかったのだ。

 では陣治の人生は?となったとき、陣治は未来に託した。十和子が誰かと幸せになり、誰かとの子を生む時、その子として産まれたいと、切に願った(陣治は無精子症で、十和子との間に子を成さないことはわかっていた)。

 陣治は十和子を愛し、きっと本当は「俺たち」の人生を歩みたかったに違いない。けれどそれは十和子のために、十和子が十和子の人生を歩むために捨てたのだろう。「俺たち」の未来を。

 
 私の人生の主語は、まだまだ到底「私」でしかないだろう。「私たち」の相手がぼんやり見えてきたとき、胸を張って、愛していると言えるだろうか。
 もしかすると、そんなことを考える隙もなく、気付いたら何もかもを許して、背負えてしまっているのが、愛なのか。
「何の見返りも求めずに、相手の痛みや傷、逃れられない何もかもを無言で抱きしめて生きていくことができる」。その覚悟ができたときには、きっと私はもう既に、その人と共に「私たち」の人生を、知らぬうちに歩み始めているのかもしれない。

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