若き香水翻訳家のための固有名詞辞典(はじめに)
はじめまして。
私は仏語→日本語への翻訳に従事する翻訳者です。
ひょんなことから、これまでまったく馴染みのなかった「香水」に関する文章の翻訳に携わることになり日々悪戦苦闘しています。
現地で発行されている香水批評雑誌を中心に半年ほど訳してきましたが、最も手を焼いたのがタイトルにも掲げた「固有名詞」でした。
そもそものところ、この「香水」というものほど多分野に関わってくるものはありません。
香水とはまず何よりもモード・ファッションブランドの文脈に関わってくるものでありながら、体臭をケアするための美容品あるいは衛生用品でもあり、その起源においては(なんと古代エジプトまでさかのぼります)治療薬や宗教的祭祀などにも使われていたものであることからも想像されるように、近年ではアロマテラピーや緩和療法といった医療・ケアの側面から語られることも少なくはありません。
さらには現代芸術におけるさまざまな嗅覚アートを通して芸術の側面から(そうした前衛的な芸術家たちが自作に香水的要素を導入するといった話に限らず、そもそも調香師自身がひとりの立派な芸術家なのではないだろうか? という議論も活発です)、香水批評においては社会学や文化人類学、哲学や精神分析とも絡められ、もはやそれ自体が衒学的な哲学論文のような様相を呈しているほどです。
また香水は文系だけでなく理系分野にも広く関わってきます。今日では香水に使われる自然由来成分がより安価で安全な合成分子に置き換えられる傾向にあるため、香水をめぐる言説には化学式や分子名が頻出します。ムスクやシベットといった動物由来成分について語られる際には生物学が引き合いに出され、そして鼻から香水の香りがどのような経路をたどって嗅覚受容体に達するのかという話になると、解剖学までもが関わってくるというわけです。
私はプライベートでもほとんど香水を使ったことがなく、これまでの人生においてまったく関心をはらってこなかったためになおのこと、この「香水」というものに秘められた上記のごとき分野横断的ハイブリッド性にひどく驚かされたのでした。
さて表題に話を戻しますが、これだけ多分野にまたがっているとなるとそこに書かれた「固有名詞」の多分野性も途方もないものとなってきます。
とはいえ翻訳者が最も多く関わることになるのは、それが現在進行形のもの、という意味においてこれからも際限なく増殖し続けることになる「モード・ファッションブランド」関係の語彙でしょう(多分野性を強調しておきながら結局そこに戻るのかよ、というツッコミが聞こえてきそうですが......)。
ブランドの名前、商品名、調香師名......。
実際これには私自身たいへん苦労させられました。
固有名詞の何がそこまで大変なのかというと、その「表記」のしかたです。ほぼすべての固有名詞が原文ではアルファベット表記となっている以上、日本語の翻訳であるためにはそれをカタカナにしなければならない。「Dior」は「ディオール」、「CHANEL」は「シャネル」といったように。
いやそこはアルファベットのまま表記すればいいのではないか、いちいち思い悩むくらいだったら? という考えかたもあるかと思います。実際そのような翻訳的実践もあるにはあります。ですがいち翻訳者としては私は、それはある種の「逃げ」であると思っています。それが日本語翻訳である以上、(よほどのイレギュラーでもない限り)すべての語は日本語で表記されていなければならないのだ、と。
「表記」へのこだわりと苦悩はそのような私個人の日本語原理主義的な盲執の産物でもあるわけですが、しかし何ともややこしい話になってくるのはここからでして、というのもそもそもフランス語はつづり字と発音(すなわちここで言う「表記」)の関係性がほぼほぼ例外なく規則で決まっている言語でして、つまり、こう書くときはこう発音する! という明確なルールが決まっていて、それは固有名詞とて例外ではありません。なので本来であればそこまで思い悩む必要はないわけです。「Dior」だったら「ディオール」、「CHANEL」だったら「シャネル」、それ以外はないのです。ないはずなのです。
ではここで香水界の雄「Guerlain」に登場してもらいましょう。
「ゲル/ラン」規範文法的にはこの文字列はこのように発音されます。
え、何、ちがう? それはゲルランじゃなくて「ゲラン」って読むんだよって? ははあ、そうですよね、うん、たいへん失礼しました。すみません。私めが悪うございやした。
そうなのです。原語のスタンダードな表記と、ブランド公式によって一般に流布している表記が異なる場合があるのです。何というかこれはもう、パラドックスと言う他ないのではないでしょうか。
他にも例を挙げてみましょう。
L'Artisan Parfumeur「ラルティザン・パルフュムール」→ 公式:ラルチザンパフューム
Etat libre d'orange「 エタリーブル・ドランジュ」→公式:エタリーブルドランジェ
Le jardin retrouvé「ル・ジャルダン・ルトルヴェ」→公式:ルジャルダンホトルヴェ
Parfum d'empire「パルファン・ダンピール」→公式:パルファム・ド・エンパイア(は? もはや英語やん😅)
このような齟齬を、本プロジェクトでは「ゆらぎ」と呼びたいと思います。
その「ゆらぎ」を処理するにはおそらく2通りの立場があって、すでに「共通認識」として一般に浸透している「公式」に準拠するか、それとも、そんなん知らねーよ、ほんとはこう書くほうが正しいんだよ、と己を押し通すか、私は(というかおそらく大部分の訳者が)読者の混乱を避けたいという配慮から前者の立場を取るのですが、そうなると知らないブランド名が出てくるたびに(うっすらと知ってはいるけど表記に自信がないものも、何度か出てきたけど記憶に自信がないものも含めて......)いちいちGoogleなどを使ってどのようなカタカナ表記がコンセンサスとして流通しているかを確認する必要にせまられるわけです。
この言わば裏取り作業がもう本当に思った以上に大変でして、外国語としての未知の語彙の把握や構文の分析、文体といった本来翻訳家が腐心するべきテクニカルな問題からは切り離された事項であるぶん余計に、どこかくだらない些末な問題、色々なサイトをぐるぐると回りながら、こんなことする必要があるのか? 俺はいったい何をやっているのだろう……という風に本来する必要のない苦労、不当で不条理なストレスに感じられてきて、それが足かせとなり遅々としていっこうに進捗しない翻訳作業を現実として突きつけられ、なおらさいらいらとしてしまうわけです。
(このようなことをくどくどと書き連ねることによっていったい何が言いたいのかというと、新しいブランドを日本に持ってくる人はそのへんもよく考えて、責任もって表記をつけてくれよな! というただの愚痴でしかないのですが……)
なので私はこの「ゆらぎ」を記録し、ひとつの辞書として翻訳作業中に参照できるようにしたいと考えました。
したがって本プロジェクトはあくまでも私個人が私的に利用するためのもの、そうでなかったとしてもせいぜいのところ同業者向けのものとなっております。
そしてこの辞典が充実していった結果、願わくばいつの日か自分と同じような壁にぶち当たった後進の一助になれれば、という意味をこめて「若い香水翻訳家のための……」と名づけた次第です(私自身は四十代のおっさんですので悪しからず……)
なのでひとまずは百科事典的なものというよりかは、単なる「表記辞典」のような趣きにとどまる予定です(今後余裕が出てこればその固有名詞に関するちょっとした解説を付記するといったこともあるかもしれません)。
辞典の分類としては以下を予定しています。
①ブランド名(いわゆるファションブランドだけでなく、そのブランドのために香水制作を請け負う「調合会社」、そして各種団体の名称もこのなかに含めるかもしれません)
②人名(主に調香師、そしてブランドや会社のCEO、過去の偉人などの名前がここに入ってくるかと思われます)
③作品名(おそらく香水の呼称だけで事足りるでしょう)
ディレクトリがあまり多岐にわたりすぎると私自身が参照しにくくなり本来の意図から逸れてしまうため、最小限にしぼりました。これらをアルファベット順に列挙し、随時更新していきます。
(同一記事を繰り返し、かつ高頻度に編集・更新していく仕様のためフォロー等は非推奨となります。スペルミス等や誤表記などございましたらご教示いただければ幸いです)
2024.9.1記