見出し画像

雑感・連鎖の三話

一話 「異種移植」を考える

 明治大発ベンチャーのポル・メド・ティック社は、「人間に臓器移植をしても、強い拒絶反応が起こりにくい遺伝子改変したブタを、日本で初誕生した」と発表し、大ニュースとなった。種の壁を越えた「異種移植」は、新たな移植医療に繋がると期待の報道がされた。

今回のブタは拒絶反応を抑えるために、10種類の関係遺伝子が改変されているとのことだ。

 臓器不足の解消には、人工臓器、再生医療、異種移植が、医療戦略の先端となっている。

ヒトの幹細胞を利用した再生医療は、細胞・組織の治療・修復に応用されているが、臓器形成については未解決な問題を孕み、臓器移植に代わり得るものはないと云われていた。

 日本のドナー臓器不足は、臓器提供を待つ臓器不全患者のうち、3%しか脳死者の移植を受けられずにいるとのことである。意思を尊重した高い倫理性を問われる医療であり、私自身も未だ「脳死問題」は逡巡している。

「異種移植」の臓器不足に対する実践は、最有力な解決策とされる以外に、自己免疫やウィルス感染の再発を、回避することも出来るという。

 数十年前、複数の生物種の細胞の複合体を一個体として発達させる、「キメラ技術」が話題になった。

そのニュースを聞いて私は、「とうとう人類は“異種移植”という、パンドラの箱を開けてしまった」と暗い気持ちが過った。

「パンドラの箱」とは、「触れてはならないもの、取り返しがつかないこと」の比喩として、私は軽く言葉にしていた。だが、この時ばかりは遺伝子治療という、特有の倫理的課題を抱えたまま、タブー領域を越えてしまったという恐れで、肌寒さを感じた。

 浅薄な私の頭に浮かんだのは、神話に登場するミノタウルスやケンタウロス、アヌビス、スフィンクスのような半人半獣を想像してしまった。多種のDNAを操作して人体に同化させることは、生物学的形態に影響があり、人間の外見にも現われてくるのであろうか。

 空想と思えた物語が、想像を越えて発達し現実化したキメラ技術の成功に、ネガティブな思考がまとわりつく。

これまでの医療技術の発展は、想像と人々の切実な願望が研究対象となり、一段々成功を積み上げて来たものではある。

 ブタが、何故ドナーとして選ばれたのか不可解であったが、次の条件を持っていたことによるらしい。

①ブタは一万年前から食用として用いれ、倫理観抵抗が少ない。

②ブタの心臓の解剖がヒトの心臓に似ている。

③体系や皮膚の状態、内臓の大きさは人間に近い。(ヒトの構造や大きさがよく似ている)

 ブタは、遺伝子操作により拒絶反応を起こしにくく、ヒトへの移植に適した転換ドナー動物として、作成するにあたりその臨床応用で、必要不可欠との研究成果であった。

 米国では、数年前からブタの臓器をヒトに移植する「異種移植」の試みが進んでいた。

 2022年には世界初、遺伝子改変ブタの心臓移植をした男性が、術後2ケ月間生存したと報道された。死因はブタのウィルスの可能性が強いと示唆していた。

 1年後に成功した2人目の心疾患患者は、厳重な予防措置が施されたのにもかかわらず、6週間しか生存出来なかった。家族と生活が出来るまでの回復を見せたが、心臓が拒絶反応の兆候を示し始め、移植したブタの心臓を、「異物」として攻撃し始め、死に至ったらしい。拒絶反応は、まだまだ解決できない最大の課題を残した。

死因となった課題がクリア出来れば、「異種移植」はますます現実味が帯びて来る。

 この話題に係る興味ある記事を目にした。

「異種移植によって、長期生育が可能となれば、今まで未知の領域であった細胞性拒否反応、慢性拒否反応についての知見が得られる。

 生理学的不適合については、四足歩行のブタに対して、直立歩行のヒトの体位の違いはどうなるか。赤血球の大きさ、体温, P H、電解質などの違い、臓器寿命の問題が取り上げられていた。これらは、私がもっとも知りたい疑問であった。

移植して数十年生存しているうちに、遺伝子組み換えした異物は、身体に何らかの異変を与えないだろうか。一人の身体に、複数の臓器別移植は可能なのか。

 ある本に「アフリカ系アメリカ人に見つかる鎌状赤血球の潜性形質は早期死亡の潜在的指標である。だが同じ形質が、マラリアを防ぐことも分かっている。潜在形質が人間のゲノムに存続する理由も、長い年月にわたって人間のゲノムに存続することを可能にした進化上の利点もほとんど分かっていない」と書いてあった。

この文が語るように、有害遺伝子を除去することは、負の外部性を招くリスクもあるということだ。何かを得ることは、何かを失うという通論を踏破して、急速な進化はして来たと思う。

 ネットに生体移植の実現可能後の「異種移植の生産ルート」の図が載っていた。

遺伝子改変されたブタは、「ドナー農場」で多量に生産され、臓器別にレシビエント病院へ届けられる。末期臓器不全患者たちは待ちわびることなく即、移植手術され命を繋ぐことが出来る。

 「脳死とは、脳全ての働きが失われ回復することはない」の事実を受け入れながらも、生されるべく臓器提供に、頷けずにいる。

本人の意思承諾、家族の合意も得たとしながらも、呼吸と身体の温かさがあるうちに死を認め、早々に臓器提供の準備をすることは、家族は冒涜行為とする気持ちになってしまうであろう。

遺族は死者の魂の存在を捨てきれず、事あるごとく心の拠り処として、魂に話しかける。

この感情は、主観の自分が心に存在する誰かの魂に置き換えて、客観しているに過ぎない。そうであっても、心が救われている。

 魂は死後49日までは家にとどまっていると云う。

昔、こんな夢を見たことがあった。

兄の四十九日の法要が明日に控えた夜、兄が夢に現れたのである。寝たきりの兄が、ひょいと起き上がり歩き出したのである。

「腹が減ったなあ。なにか食べるものはないのか?」と言って、冷蔵庫のドアを開けた。「なんだ、何も入っていないじゃないか!」と、がっかりして座り込んでしまった。

そんな兄を見て母と私は、「こんなに元気になるのなら、火葬などしなければよかったねぇ!」と顔を見合わせた。すると兄が、「何?俺の体を焼いてしまったのか!それじゃ俺は身体に戻れないじゃないか、これからどうすればいいんだ!」と、悲しそうに顔を歪めて私たちを見た。私は魂の宿る肉体を焼失させてしまった申し訳なさで、「ごめんなさい!」と泣き出していた。泣く自分の声で目が醒めた。

死の確認をもっての火葬であるが、脈絡がないのが夢だと云えばそれまでのことである。

 法要を迎えるまでの兄の魂は、現世と冥土を彷徨し、49日目に成仏して冥途へ旅立つはずである。その前夜に、夢というスピチュアルナな世界で、兄の魂は現世にとどまりたいと願っていたのか、私の悔恨の現われなのか。人間の死は、逝く本人のものではあるが、家族のものでもある。

日本人特有の倫理観と感性の普遍性は、科学の進歩に抗うかのように対立させる。

人間生活を豊かにしているのは、科学の進歩によるものと認識はするが、失っていくものへの郷愁感も大きい。

 デカルトの云う、「精神と物体(実体)は別々に存在し、身体は物体と同じく機械的なもの」と心身二元論に対して、多くの哲学者が反論したことがその表れだと思う。

こうして、医療科学と感情を素人知識で比すれば、「疑問を抱く程度の低レベル止まりの、ネガティブな考えでは未来の発展はない!」との声を意識しての雑感である。

 「ドナー牧場」の存在価値は、それらを包括した上での最善の医療科学と、認識しなければならないのであろう。 

二話 オーウェルの「動物農場」

  「ドナー牧場」の図を見た時、ジョージ・オーウエルの1944年著の「動物農場」をふと思い出した。

この小説は「寓話」としているが、人間を動物に置き換えてはいるが、ロシア革命後のソ連であることは明確である。ソ連がスターニリズムの全体主義へと変わって行く過程が、ブタの支配による統治の特徴の形で、当時のロシアの政治性を表わしている。

 寓話では、革命によって搾取者である人間を追い出し、動物たちの理想郷として動物農場を築いた。動物主義の実践に励み共和国となり、知力に優れたブタが大統領に選ばれた。だがブタは次第に、手に入れた特権を拡げ、新たな独裁者となり、他の動物から搾取と監視を強めていく。革命の同士といえども異論を唱えれば粛清を行う。

 そのうちブタたちは、外部の人間たちと取引を始め、それに反対する動物が入ればイヌを使って弾圧した。ブタたちはかっての人間たちと何ら変わらない存在になってしまう。

 ある日、ブタは近所の農民の視察団をツアーに招いた。

他の動物たちは、使節団を迎えるブタたちが後ろ足で立ち前足にムチを持つ、正装した姿に驚愕していた。

農民の代表者が農場の有様を見て、「動物農場の低位の動物たちは、他の動物たちよりたくさん働き、しかも食べ物は少なくて済んでいる。人間は見習うべきことである」と、ブタたちの独裁による統率力を称え、乾杯して友情を示す。

外の動物たちは、その光景を見つめるうちに何か不思議なことが起こり、ブタの顔が溶けて変化しているように見えた。そのうち、一同はトランプ始めたため、動物たちはこっそりとその場を離れた。20mほど歩くと、農場邸宅から怒号が響いてきた。動物たちは駆け戻って窓から覗き込むと、凄まじい口論が進行中で、それはどれもそっくりの声であった。

「いまやブタたちの顔がどうなっているか、疑問の余地はありません。外にいる生き物たちはブタから人間へ、人間からブタへ、そしてまた、ブタへと目を移しました。でもすでに、いまやどっちがどっちかを見分けるのは不可能なのでした」と、寓話を締めくくっていた。

 革命の理想が、いつしか全体主義へと変わって行く過程は、2022年に起きたロシアのウクライナ侵攻が、寓話の描いた全体主義支配の統治を再現しているようであった。

このように、繰り返される愚行の政治史に憤りを感じた。

 本の中で、革命時の戒律が「動物は平等である」だったはずが、「すべての動物は平等である。だが一部の動物は他よりもっと平等である」と、書き換えられていた。

「一部の」とは、権力を握った革命家たちを指し、それらが独裁という権力構造を作り上げていくのである。

 全体主義の時代に、現実の為政者を本に描くのは、かなりの覚悟をもってペンを執ったと思う。寓話に置き換えた小説だからこそ、怯むことなくあからさまに、ペンを走らせることが出来たと思う。

それゆえに読者は、全体主義国家たるものを知り、取り巻く欧州の闇の深さまでが見えた。(動物農場の舞台はイギリスになっている)

今の世界がまさに、全体主義傾向に動いている不穏さを感じざるを得ない。

 オーウェルは、ブタを「知力に優れている動物」と捉えていた。1968年公開の映画「猿の惑星」は、人間を支配したのは高度な知能を持つ猿であった。だが人間に対して革命の旗手となるのは、「食肉だけの宿命」を強いられて来たブタなのかもしれない。

 一話で示した、異種移植の生産ルート図の「ドナー農場」は、「動物農場」のブタをリンクさせながら、ブタのアイデンティティを考え直すことを促した。

ネガティブなイメージを持つブタも、近年は賢さと愛嬌ある顔で、ペットとして愛玩されている姿を見る。だが食肉として人間に隷属していることに変わりはない。

だが、ドナーとしての存在価値を持つブタを、何のためらいもなく、食することできるであろうか考えてみた。

例えば、私の腎臓はブタのドナー臓器が体の一部となって、私を生存させているとなればどうであろうか。

 ふと「ブタの宿命」を、いや動物そのものの存在価値の大きさを意識させた。

これからも人間の生存を守るためには、動物実験を際限なく行われることであろう。

肉食や使役としての、動物の資源はいまさら否定できないが、私たちの人間中心主義的考えが高じて、他の生物の命を蔑ろにしてはいないだろうか。

相互作用する多種多様の生物によって、私たちは存在していることを、忘れてはならないのではないかと思う。 

三話 ムヒカ大統領のスピーチ

 私は月に一度、市内の小学校で絵本の「読み聞かせ」活動に参加している。

我が子の成長過程を回顧して、今更ながら子どもの発達段階に応じた、読書の重要性を認識し、豊かな読書体験の実現を推進したいと考えての活動である。

 「読み聞かせ」は、読み手の感情移入は禁じられ淡々と話し終える。だが読み手の感動なき本に、聞き手の感動を得られるわけがない。低学年は絵の持つ視覚的効果が発揮出来るが、高学年ともなれば内容の理解が深まり、考える力が付いてくる時期と云える。

 こんなことがあった。読み聞かせに選んだ絵本が感動のあまり涙が止まらなかった。生徒の前で言葉を詰まらせる醜態を晒す自分を想像し、この本を読むことを諦めようとした。

 アイヌの儀礼の一つである「イヨマンテ」のクマと少年の物語だが、クマと少年の崇高なまでの命のやり取りが悲しくもあった。

クマを神の使いとして崇め、豊かな自然への畏敬と感謝する儀式の伝統を、理解することができた。

自然を利用するだけの現代に、共存する生物の敬いの心を取り戻す、やさしい絵本であった。

感情を露わにして、読み聞かせすることが難しい本なら、読みこなすまでのことと何度も練習を重ねた。その甲斐あって、本番は冷静な心持で読むことが出来た。

 またあるときは、朗読の聴覚のみが効果的な本と判断し、絵を見せず朗読する異例の読み聞かせを実行した。図書館側の了解を得てことである。

読み終えて廊下に出ると、担任教師がこんな言葉をかけて来た。

「今は文学を題材とする国語教科が少なくなりました。科学や社会ルールなどの内容が多くなりました。今は学校の図書室の本が充実していますので、生徒は読みたい本を借りるという、自立した読書に任せています。

「はて?生徒の自主性による読書となれば、各々の読解力の差は表れるだろうな」と要らぬ想像をしてしまった。

担任教師は、「授業前(10分)に、全員が集中して聞いているこの時間は大切と思います。私自身も絵本から考える時間をもらっています」と言ってくれた。子どもの気持ちは知ることが出来ないが、教師の言葉が聞けたことで、校門を出た私の足取りは軽やかだった。

 いつものように図書館で本選びをしていた。眼を止めたのは、「世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ」の絵本であった。

 私は、このムヒカ大統領のドキュメント映画を2020年に観ていたのである。

 ムヒカ大統領は、ウルグアイで異例の善政を敷き、「世界でいちばん貧しい大統領」と、称された政治家であり、その生き方に感動していた。

 絵本は2012年のブラジルのリオデジャネイロで行われた、「国連持続可能な開発会議」の中でのムヒカ大統領のスピーチを、子どもにも理解できるように編集されていた。

 スピーチの全文は読むことが出来るが、ここではあえて絵本を紹介したい。

 「・目の前にある危機は、地球環境の危機ではなく、私たちの生き方の危機です。人間はいまや生きるためにつくったしくみをうまく使いこなす事が出来ず、むしろ危機に陥ったのです。

・貧乏とは、少ししか持っていないことではなく、限りなく多くを必要とし、もっともっとと欲しがることである。

・水不足や環境の悪化が、いまある危機の原因ではないのです。本当の原因は私たちが目指して来た幸せの中身にあるのです。見直さなければならないのは、私たち自身の生き方なのです。

・社会が発展することが、幸福をそこなうものであってはなりません。発展は、人間の幸せの味方でなくてはならないのです。

 ・人類が幸福をであってこそ、より良い生活ができるのです。」

 ムヒカは「使い捨て文明」を支える消費社会は、政治問題と指摘している。環境のために闘うなら一番大切なのは、人類の幸せであることを忘れてはならないと訴え、スピーチを結んでいる。

 ムヒカのスピーチは、私の心中にわだかまっていた社会の見解を表現してくれ、溜飲が下がる思いであった。

世の人々は「より良い生活」とは、人より豊かな(物質的)生活をすることと認識し社会はそれでサイクルされている。見直さなければならないのは、私たちの生き方である。

人類の幸福とは何かを真剣に考えれば、大義名分を掲げての国政や紛争が、実に愚かと思うはずだが。

思考の柔軟な少年期に、「幸福とは」とは何かをムヒカの絵本から学べば、子どもたちの、未来、いや私たちの今を変えることが出来る。

 ムヒカのスピーチは、今日あるべき理想の政治家として、国会討論の前段で「読み聞かせ」をしたいものである。

 まずは私たち自身も、生きていく社会の問題は為政者に任せるだけではなく、「考えをもつ自分」でなければならない。

 社会に、世界に、人間に無関心になるということは、自らの生き方を放棄してしまうことではないだろうか。

  眼差しに明るさ消えし戦禍の子
  わがすべきこと思う月の夜


この記事が参加している募集

読んでいただきまして幸せです。ありがとうございます。