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記憶の名残り

はしがき

戦後の混乱が回復するまでの数年、戦中から制定された食糧管理法は、何度か改正された。その間、主食である米穀の生産、流通、消費にわたって政府が何らかの形で介入し、管理されていた。
米穀は配給制のため、都市部の家庭では不足しているのが実情であった。
そのため農家が配給に供出していない米を、金や着物などで取引して手に入れる、「闇米」が社会の底辺で流通していた。
その闇米を農家から直接高い値で買って、都市部に運ぶ「闇米のかつぎや」と呼ばれる人たちが存在していた。
手に入れた不法な米を背負って、列車で都市部へ運ぶかつぎやは、時には警察によって米を没収されたりする、リスクの高い仕事であった。

I

母の背中には大きな傷があった。傷は中央から右に柏の葉を貼り付けたような形をしていた。傷口に走る数本の白い筋は葉脈のようであった。その皮膚の下にあるべき肋骨は、数本欠落していたと思われた。
母は「この傷はね、重い米を背負って階段から落ちて怪我をした時の傷なの。きちんと治らないうちに家に帰ってきちゃったもんだから、こんな跡になってしまったのよ」。
当時は、富裕層でもない限り、術後の形成を気にする余裕は、なかったであろう。母は怪我の痛みがありながら、病院へ行くことを躊躇い、ようやく罹っても早々に退院いてしまったとの事であった。

母は東京生まれの東京育ちであった。17歳のとき、東京で働いていた父と結婚し、昭和19年まで家族4人で両国に住んでいた。戦禍を避けて、20年の3月10日の東京大空襲数ヶ月前に、父の実家の郡山へ疎開していた。
父は終戦を迎えても、焦土と化した東京へは戻らなかった。母は落胆したが、諦めて田舎の暮らしに馴染もうとした。懐かしむ気持ちを、末に生まれた私を京子と名付けた。
父は写真技術を生かして、開業した。しかし、まだ物質が不足の世の中で写真業だけでは成り立っていかなかった。日中暇な父は、訪れた友人と「商売のうち」と称して、酒飲みをしていることが多かった。世帯主の収入が不安定な生活は、5人の子どもを抱え困窮極めた。

そのような状況に、知人から「闇米のかつぎや」を誘われた。世間知らずの母が、よりによってこの仕事を引き受けたのが、疑問であった。引き受けた理由には、母は第一に、その日の稼ぎが現金で入ること、家族の食べる米に不自由しないこと。そして戻れる希望のなくなった東京へ、仕事という大義名分で、行くことが出来る、との思惑が働いたのかもしれなかった。
だが母は、東京へ行っても、両親に会うこともなく郡山へ帰って来た。長女の母が、遠方へ行ったきりになってしまった申し訳なさや、不法な仕事をしているという、生活の現実を見せたくない気まずさであろう。

IV

母はいつも末っ子の私を連れて歩いた。子どもを任せられない夫への不信と、幼子への愛情と、闇米を届けるには子供同伴の姿は、世間の目にはカモフラージュとなった。
農家との交渉においても、スムーズにことが運んだ。
徒歩で 米を買いに行く8㎞の道のりも、私にとっては楽しいものであった。日中でもうっそうとした山道の怖さは、スリリングであった。早春の小川にはセリの若芽がなびき、秋は木立の下にしめじがひっそりと群を生していた。 それらが夕飯のおかずとなった。
翌朝、母は大きい重い荷を背負い、私の手を引いてホームに立つのである。列車に乗ると私を窓際に座らせ、素早く米袋を下ろし、座席の下に隠した。
「ガタン」と列車が発車すると、東京まで5時間かけて通過する30あまりの駅を、「次は安積永盛ー須賀川ー鏡石ーetc.」と、読経のごとく唱え、私に聞かせた。

V

ある日、宇都宮駅で闇米の一斉取締があった。私たちの座席下に隠されていた米袋は、没収されてしまった。宇都宮のホームで佇む親子は、郡山へ引き返すしかなかった。米の代金、汽車賃は無駄金となり、体力の限界まで背負った米も、全て「無」となってしまった。子供心にもこの時の不条理さを、痛感したものだった。
これほどのリスクを負いながらする仕事であろうか?。私はこの疑問を大きくなってから、理解することができた。
母はこの時の悔しさを機に、米袋の隠す場所を変えた。自分たちの座席下ではなく、向かい側に座る客の席下に隠すことである。もちろん、座る客には了承を得る。だがこの方法は、客の条件を見極めての事である。その条件とは、終点の東京まで行く男女の二人連れであること。そしてそれなりの服装を身につけていることである。いろいろな二人連れがあり、夫婦だったり、恋人だったり、曰くありげな事情があったり、様々であった。
母の条件とは、まだ若い自分が幼い娘を連れて、闇米の仕事をしなければならないという訳ありを感じ取らせ、相手の憐憫の情にすがる、姑息な策であった。
夫婦でれば、奥さんが親子を見て、「どうぞ、いいわよ!」と了承の結論を出してくれる。母性本能の表れである。事情ありの二人であれば、男性が「ああ、いいですよ」と、戸惑いながら答えてくれる。自分たちの立場の後ろめたさからか、事を面倒にしたくない思いの優しさが見える。
いずれにしても、この方法は効を奏じた。
あの日も、福島から乗ったという二人連れの席下に、米袋を隠すことが出来た。連れの若く綺麗な女性は、終始俯加減で隣の男性と、静かに話しをしていた。その雰囲気にはタブーな領域があった。幼いながらも私は、視線を向けてはいけない心地で、車窓の景色を眺めていた。この時の情景は大人になった自分も経験することで、思い出された。

上野で降りると母は、売店でパンと飲み物を買い、「お母ちゃんはちょっと用足ししてくるから、ここで待っていてね。」と言って背負っていた米袋を下ろし、その上に私を座らせた。売店のおばさんに声かけして、急ぎ足で雑踏の中に消えていった。私はパンをかじりながら、行き交う大勢の人を眺めて母を待った。
母は戻ると電車に乗り渋谷に向かった。渋谷には米を待っているおばさんがいた。
店の勝手口から「こんにちわ!お邪魔します。」と入ると、そこは広い調理場であった。おばさんは大きなたらいに炊き上げたばかりの飯を、団扇で扇ぎながら酢を振っていた。
「あらら!京ちゃんもご苦労様」と言って、困ったような笑顔を見せた。
渋谷のおばさんは、藍色の竹模様の浴衣に白いエプロンをかけ、襟元には手ぬぐいを当てていた。その首にはケロイドの跡が見えた。
おばさんはまだ温かいしゃりをおにぎりにし、お新香を付けてご馳走してくれた。ツーンと酢が鼻をつき、むせかえりながら頬ばったあの感覚が、いまでも蘇る。

東京駅から帰りの列車に乗る頃は、夕暮れに差し掛かっていた。母の背中の重い荷は消え、代わりに私がおんぶされていた。どこまでも苦労する母の姿であった。列車が走り出すと、買って貰ったチョコと品川煎餅を食べながら、解放された母の体に絡みついていた。
黒磯駅に着くと決まって母は、「釜飯を食べようね」と駅弁を買ってくれた。
このように母はターニングポイントに、食べ物の場面を作ってくれたことが強い記憶となった。
母を膝枕にして居眠りしていた私は、アナウンスと母の声で目を覚ました。終電で降りたホームは、人気はなく静まりかえり、母の靴の音だけが響いていた。
私はおんぶされて駅を出、街の闇の中に消えていった。

あとがき

私がいつも呼び戻される記憶は、母に連れ立ったあの「闇米のかつぎや」の頃である。
懐かしく愛おしい記憶は、苦しみや悲しみに裏打ちされたものと私は思う。
「私」という素地を形成されたのは、母の手に引かれながら、垣間見た社会の様子、世間の事情を抱えながら、必死に生きている人々の姿であった。誰もが不条理を憂い解釈したうえで、進もうとするエネルギーが感じられた。
不自由な時代に「何故?」を問う自分があり、強い意志が養われていくのであろう。


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藤田  凛
読んでいただきまして幸せです。ありがとうございます。

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