「新しい日常」は少し異常だと思われてきたことが正常になる社会のことだろう
こんな記事を書いてから2ヶ月。
まさに、新しい日常の毎日に入る時が来たようです。
先日、こんなことも書いてますが、あまり受けなかったなあ。
いずれにしろ、「新しい日常」という言葉が小池都知事からも出てきて、日常なのか、ノーマルなのか、新しく考えるべき常態が必要なようです。
でも、それは、全く新しく生み出されるものではなく、今行っている工夫の連続の先にあるものだろうと思います。
そこにあるのは、少し丁寧にウイルスからの感染に気を使いながら暮らしていくことでしょうし、潔癖症気味な清浄の連続と、花粉症気味なマスクの常備、コミュ障気味なソーシャルディスタンスと、うつ病気味な引きこもりの組み合わせなのかもしれません。
つまり、これまで考えられてきた「正常」とか「健常」とかいう言葉を疑うことから始まるのではないでしょうか。
人と違うことが、種の保存には重要だということが、感染症によって明らかにされたようにも感じます。
そして、断絶せずに見守り続けることが社会の継続に必要なのです。
自分が考えてきたことを並べてみると、意外に、今につながっているのかもしれないなと思ったりしました。
サポートの意味や意図がまだわかってない感じがありますが、サポートしていただくと、きっと、また次を頑張るだろうと思います。