自民党「日本国憲法改正草案」読んでみた その3:第2章 安全保障
自民党の日本国憲法改正草案を読んでいます。
誰も興味がなさそうで記事へのアクセスもないのですが、私個人は、自民党の総裁が決まって、この話が進むかもしれないと思うと気が気ではいられません。
まさにそういう章が、この「安全保障」ではないでしょうか。
「戦争の放棄」から「安全保障」へ
現行憲法の第2章は「戦争放棄」です。
日本国憲法の要とも、良心とも言われる「第9条」になります。
第9条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
第1章天皇で、ちょっと「?」となった方が、この第2章を見ると「!」となるかもしれない。そんな章です。
ただ、その背後にある天皇という存在への目線が、現行憲法に残る戦前の影を消したいという畏怖と監視の視点から、戦後70年以上経って、人間天皇となって3代目を迎えた、管理可能な存在である役割(機関)としての天皇というような平易なものになっていることが感じられます。
天皇を元首として明記する草案において、この9条は、次のように見直されています。
第 九 条
日 本 国 民 は 、 正 義 と 秩 序 を 基 調 と す る 国 際 平 和 を 誠 実 に 希 求 し 、 国 権 の 発 動 と し て の 戦 争 を 放 棄 し 、 武 力 に よ る 威 嚇 及 び 武 力 の 行 使 は 、 国 際 紛 争 を 解 決 す る 手 段 と し て は 用 い な い 。
2 前 項 の 規 定 は 、 自 衛 権 の 発 動 を 妨 げ る も の で は な い 。
あれ、変わってない。
そう思ったのも束の間、第2項で「自衛権の発動を妨げるものではない」と釘を刺します。
戦力の保持や、交戦権についてはどうなるのでしょう。
第9条の2という追加条項
第9条の2 という項目が追記されています。
この項目の追加の仕方も変なんですよね。第2項はあるわけですから。
つまり、この「国防軍」と言う項は、第9条を平和主義としつつも、とって変わりたいくらいに入れたい条項である、という作者の意図が見て取れはしないでしょうか。
いわば、二つ目の第9条なのでしょう。
第 九 条 の 二
我 が 国 の 平 和 と 独 立 並 び に 国 及 び 国 民 の 安 全 を 確 保 す る た め 、 内 閣 総 理 大 臣 を 最 高 指 揮 官 と す る 国 防 軍 を 保 持 す る
国防軍を規定し、その役割を定め、組織などは別法に示すとし、最後に、軍事裁判所の制定を示しています。
5 国 防 軍 に 属 す る 軍 人 そ の 他 の 公 務 員 が そ の 職 務 の 実 施 に 伴 う 罪 又 は 国 防 軍 の 機 密 に 関 す る 罪 を 犯 し た 場 合 の 裁 判 を 行 う た め 、 法 律 の 定 め る と こ ろ に よ り 、 国 防 軍 に 審 判 所 を 置 く 。 こ の 場 合 に お い て は 、 被 告 人 が 裁 判 所 へ 上 訴 す る 権 利 は 、 保 障 さ れ な け れ ば な ら な い 。
つまり、第9条を継承しつつも、国防軍は置きますよというのが第9条の2というわけです。
更に第9条の3として、国土の保全を説きます。
( 領 土 等 の 保 全 等 )
第 九 条 の 三
国 は 、 主 権 と 独 立 を 守 る た め 、 国 民 と 協 力 し て 、 領 土 、 領 海 及 び 領 空 を 保 全 し 、 そ の 資 源 を 確 保 し な け れ ば な ら な い 。
この3つを合わせて「安全保障」としたわけです。
なぜ、安全保障という項が必要なのか
どうしてこういうことになったのでしょう。
もともと、戦争の放棄も軍隊の放棄もGHQによるもので、日本人の求めるところではなかったという意見があります。
しかし、そこに「平和」という言葉を加えたのは、日本社会党の鈴木義男によるところが大きかったという話は、先日、記事に書いた通りです。
つまり、9条に「平和」の文言を入れたのは日本人であり、当時の議員たちの論戦の末だということなのです。日本国憲法は決してGHQから与えられただけのものではなく、与野党を問わない議員の真剣な日本を思う気持ちから発する議論があって成立したものだということがわかります。
戦争に負けたから、戦争を放棄し、武力を行使しないのではなく、それは「平和を希求する」からなんだという、いわば空いばりのようなところがあります。しかし、この空いばりこそ、戦後日本を支えた「武士は食わねど高楊枝」的な貧すれども貪しない精神ではなかったでしょうか。
いやもう、そんな時代ではない、世界の軍事バランスの上でも、極東の緊張を考えた上でも、日本が国防軍を持たないことは考えられないのだ、という意見があることもわかります。
しかし、国防のあり方、安全保障のあり方は、本当に「国防軍」を誇り、防衛費のGDP比1%を超えて増強するところにあるのでしょうか。
現行憲法の前文にある恒久平和の希求
第9条とセットで語られるのは、憲法前文のこの部分です。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
そして、当然、9条を変えたい人たちは、この前文についても一言言いたい人たちあることは、先般みています。
安 倍 晋 三君(自民)
…憲法の前文でございますが、この憲法の前文に、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」こういうふうにあるわけであります。では、この「平和を愛する諸国民」というのは一体だれなんだということでございますが、例えば、国連の常任理事国…は、この戦後 50 数年間、すべて戦争をしているわけで…そういう意味においては、この前文は全く白々しい文であると言わざるを得ない…。
そしてまた、この前文によって、私どもの中に安全保障という観念がすっぽりと抜け落ちてしまっていると言わざるを得ないのではないか…。
第 147 回国会 第 9 号-p.16 H12.5.11
高 市 早 苗君(自民)
…私は、(憲法に)国家は国民の生命と財産を守り抜く責務、そして国家の主権と名誉を守る責務、さらには国益を守るべき責務というものを書き込みたい…検討すべきは、…安全保障について非常に他力本願的な表現を使われております前文であったり、また 9 条でありましたり、また総理の継承順位、この記載をどうするか…。
第 147 回国会 第 8 号-p.5 H12.4.27
…「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」この非常におめでたい一文を、もし改憲の機会があれば真っ先に変えようと思っている…。
第 150 回国会 第 1 号-p.30 H12.9.28
「あたらしい憲法のはなし」の中で、「これからさき、この憲法をかえるときに、この前文に記された考え方と、ちがうようなかえかたをしてはならない」と考えた昭和22年の人々はもういないということなのでしょうか。
時代背景を反映した「理想」
確かに、憲法前文は、当時の社会情勢、特に昭和21年という時期を反映して書かれている部分があります。
この前文が何を意味するかの解釈は、衆議院憲法調査会の事務局が小委員会に提出した資料があります。
「人間相互の関係を支配する崇高な理想」とはいかなる理想を指すかは必ずしも明らかではないが、この文句の由来から見て、それはこの憲法成立の当時まさに出発しつつあった国際連合の掲げる理想を指すと解される…。
安倍さんが否定する「平和を愛する諸国民」はこの時、国際連合に参加する国々に拠る世界平和の牽引をいう仕組みを指していたでしょう。それが、東西冷戦になっていく歴史の中で「空々しいもの」になり、結果、この前文が「白々しい」文章になってしまったのであって、この前文自体が目指すものが「白々しい」とは言えないのではないかと思います。
ただ、そういう社会の実情とそぐわないから変えてしまえ、という気分が自民党草案にあることは、こうした安倍さんの答弁にも見受けられます。
だからこそ「戦争放棄」から「安全保障」に変えなければならないという思いがあることは、先の答弁にも見えますし、現在の総裁選にアベノミクスの後継者として立候補している高市さんは、更に強く、前文と9条を否定しています。
22世紀の国際社会での「理想」を
しかし、この資料での解釈は更に続きがあります。
ここに宣言されている決意が九条の戦争放棄の規定として具体化されている。すなわち、この「決意」とは、日本国民が敗戦・ポツダム宣言の受諾によって受動的にやむをえず戦争を放棄し軍備を保持しないことに決したのではなく、恒久平和を念願し人類の崇高な理想を自覚することによって、みずから進んで積極的になした決意であることを示す。九条冒頭の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」の文句がこれに対応する。
この決意を踏まえれば、国防軍という発想はありえないものだと憲法調査会の小委員会での資料では解釈しています。
この文句を以上のように解すべきであるとするならば、この文句から、自衛のためであれば戦争を認め、また自衛のためであれば戦力の保持を認めるというがごとき考え方を導き出すことは許されない。
それは、他国を信頼するからであるというのです。
これに対して、先の資料内で、当時民主党の岩國哲人氏が、「日本のために、これから例えば 50 年間、信義と誠実をいつまでも持ち続けてくれる友好国がどこにありますか。…他国を信頼するというよりも、自国民をむしろ信頼すべきではないかと思います。」という意見があることも紹介してあります。
これでは、民主党から自民党草案に対抗する案も出せそうにはありません。
昭和22年の人たちが新憲法に夢見たことは、武力よりも正義を信頼し、戦力で圧倒するのではなく、攻撃するには惜しい相手として存在し合う世界を目指すこと。攻撃抑止力が核爆弾ではなく国家としての存在感であること、それが「名誉ある地位を占めたい」と願った瓦礫の中の小国・日本だったのではないでしょうか。
よその國と爭いごとがおこったとき、けっして戰爭によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの國をほろぼすようなはめになるからです。また、戰爭とまでゆかずとも、國の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戰爭の放棄というのです。そうしてよその國となかよくして、世界中の國が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の國は、さかえてゆけるのです。
その願いは理想は、22世紀に向けた国際社会の理想にはならないでしょうか。
戦力のひけらかし合いではなく、平和を希求する信義に基づく国際協調と国際貢献による国家としての威厳の高さで他を圧倒する世界。
SDGsとか言ってたって、戦争が起きたらば元も子もないわけですから、持続可能な世界のためには、やはり新しい理想主義を掲げて、粘り強い交渉で進むしかないんじゃないかと思うのです。戦力だって、ミサイルの時代じゃなくてドローンとか衛星からの攻撃かもしれないし、操作系を台無しにするハッキングかもしれない。そんな時代に、核のボタンとかジュラルミンケースに入れて「抑止力」にしているのがセーフティなのかどうか。
22世紀につながる憲法を目指して、草案は見直されるべきなんじゃないでしょうか。