漫才論| ¹⁶⁶「"嘘"を本当のように見せる」のがコントなら, 「コントよりもえげつない"嘘"を本当のように見せる」のが漫才
「漫才とコントの決定的な差」について,かもめんたるの岩崎う大さんがこちらのインタビュー記事の中で語っています。コント師目線で見る「漫才」とはどのようなものなのかがよく分かる記事だと思います
「コント師目線で見る『漫才』」を題材にすることによって逆に,「漫才師目線で見る『漫才』」とはどういうものなのかが理解しやすくなると思うので,インタビューを抜粋しつつ,この点について書いてみたいと思います
漫才は「芝居」なのか
これは,「『漫才』とは演じるものなのか」という大きな話です。「演じている」といえばもちろん演じてはいますが,演者側に「演じている」という意識があるとうまくいかないのが漫才の特殊なところです。「それを自然にやろうと思えば思うほど空回りする」,まさにこれです。「自然体でいよう」と意識すればするほど不自然になるのと同じです
ですから,「演じている」という要素は結構あるにもかかわらず,「演じている」という意識とは違う感覚で"演じる"のが漫才です。この説明だとたぶん混沌としてきていると思いますが,この「漫才の迷宮」に迷い込む人の多くは,次のような"結論"に至ります
"演じる"という感覚が強いと・・・
「『素の自分に近い人間』を演じる」というやり方は,人によってだと思いますが,うまくいく場合とうまくいかない場合があります。岩崎さんのように「別人のままずっと話している感じ」というのは,あまりうまくいっていないパターンだと思います。岩崎さんの場合,「漫才も演じることの延長に置くことができた」という発言からも,"演じる"という感覚が強いことが分かります
この「"演じる"という感覚」の範囲内で漫才をとらえようとしているかぎり,自然な漫才をすることはできません。それはなぜなのか?その理由が分かれば,「漫才とコントの決定的な違い」が見えてきます
漫才とコントの決定的な違い
「嘘を本当のように見せる」のがコントだとすれば,「コントよりもえげつない嘘を本当のように見せる」のが漫才です。「私たちは役を演じています。私たちの芝居をみてください」という"形"で始めるのがコントです。一方,「今出てきて二人で初めてする話をします。台本なんてないし,相手が何を言うかなんて全然知りません」という"体"で始めるのが漫才です。「私たちは演じています」という根底の部分では一切嘘をついていないのがコントで,「最初から最後まで私たちは一切演じていません」というえげつない"嘘"をつき通すのが漫才です
漫才というのは基本,「『全部"嘘"』を『全部"本当"』にみせる」という芸です。そのためには,大枠の"嘘"以外の中身は,できるかぎり"本物"である必要があります。これは,「中身は全部『本当の話』でなければいけない」という意味ではありません。中身が全部「フィクション」の場合でも,「本気でそう思っている」という状態で話すということです。内容は全部"嘘"でも,「本気でそう思っている」ことによってそれは"本物"になります。同じように,「その話を初めて聞いた」という演技をするのではなく,「相手の話を本気で聞き,本気でリアクションする」ことによって,それを"本物"にします。これができる人が,うまい漫才師です
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THE MANZAI magazine
❶「自分たちにしかできない漫才スタイル」を確立する方法 ❷しゃべくり漫才のうまさは「相槌」で決まる ❸「漫才台本の書き方」と「オチのつけ方」 ➍ボケやツッコミってどのようにして思いつくものなの? ❺「言い訳-関東芸人はなぜM-1で勝てないのか-」は"現代漫才論"ではない-ナイツ塙さんが何を「言い訳」しているのかが分かれば,関東芸人がしゃべくり漫才でM-1王者になる道が見えてくる- ❻漫才詩集「38」
フィクション漫才『煮豆🌱』-いとこい師匠のテンポで-
作: 藤澤俊輔 出演: おせつときょうた