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うつ病の私が見ている世界 第4話

 松永医師の診察の効果(?)は、意外とすぐに出た。
 翌朝、キッチンで洗い物をしていると、シュッと何かが私の横をすり抜け、ぴたりと私の斜め後ろに立った。その何かは、膝から下しかない。膝から上は銀色の薄い煙となって霧散していた。
 フジリンゴ族!
 思った瞬間、何かは消えた。
 手から抜け落ちたフライパンが、シンクの中で音を立てた。
 喫茶店の早朝パートを務める私は、家族の中で誰よりも早く起きる。
 ここのところ眠りが浅く、四時には目覚めてしまうので、家族はまだ就寝中だった。
 物音で目覚めた夫が
「どうした?大丈夫?」
「今、そこに、フジリンゴ族の足が…」
 夫が怪訝そうに、
「フジリンゴ族の?」
「フジリンゴ族の足が見えた」
 夫がかぶりを振った。寂しそうな、不安げな目。
「信じてくれる?」
「信じるよ」
 私が心療内科に行って以来、もともと優しい夫が、さらに優しくなった。おそらく不安なのだろう。とてもよく理解できる。逆の立場だったら、私も同じだろう。
「飲んでる薬のせい?」
「うーん、わからない。次、聞いてみる」
「電話で予約して、今日、パートの後に〇〇心療内科に行ってみたら」
「大丈夫だよ。まだ薬、たくさんあるし」
 だが夫は、テーブルの上に置かれたままになっていた電子タバコを手に取って、
「行ってみた方が、電話だけでもしてみたら?」
「大丈夫だって」
 しばらくシンクの前に並んで、私は洗い物を、夫はタバコを吸っていたが、
「ごめん俺、もう少し寝るね」
「うん、おやすみ」
 夫は夫婦の寝室いしている和室の引き戸を、わずかに開いたまま、布団に戻った。
 しばらくスマホの明かりが漏れていたが、すぐに眠ったようだった。
 私は、洗い終えたフライパンや鍋を水切りに並べ、汚れた皿やカップを食洗機に詰めながら、先ほど見たフジリンゴ族の足について思いを巡らせた。
 あれは確かに、フジリンゴ族の足だった。
 つま先をこちらに向けて、私を見ているようだった。
「むっ!」
 食洗機を閉めようとして、私は唸った。
 調理台の下に引き出された食洗機の、その奥に再びフジリンゴ族の足があったのだ。
 いる!と思った瞬間、再びフジリンゴ族の足は消えてしまった。
 フジリンゴ族はやはり、つま先をこちらに向けていた。

 一時間もすると、娘たちが起き出してきた。
「お弁当、カバンに入れてね」
 三人も娘がいると、朝の洗面台は混乱を極める。
 それぞれが手際よく、顔を洗い、歯を磨き、身なりを整えるのだが、それでも時に工程が重なって、かしましい。
 時に今朝は、三人の誰かが低い声で般若心経を唱えていたから尚更だ。
 ようやく夫が二度寝から起き出してきた。
「ねえ、聞いてよ」
 パートの身じたくをしながら私が言った。
「誰か、般若心経を唱えてるんだけど。ウケる」
「え?」
 夫が問い返し、
「般若心経?」
「うん、ほら、聞こえない?」
 夫が訝しげに眉を顰めた。
 ちょうどリビングに出てきた長女が、
「あ、パパ、おはよー」
 綺麗に結い上げた黒髪を、くるりと左手で靡かせた。
「あれ?あんたじゃなかったんだ」
 私が言うと、
「え?何が」
「洗面所でさ、誰か、超低い声で般若心経を唱えてない?」
「般若、なんだって」
「般若心経だよ。お経。ママが昔、写経にハマってた時に聴いてたやつ」
「え、怖。誰もそんなの唱えてなかったよ」
「ウソォ、だって今も聴こえてるじゃん。あ、止んだ」
 夫と長女が顔を見合わせた。
「ちょっとママ、ヤバいかも」
 長女が言った。
「だって、うちの中でお経できるのママだけだよ。フジリンゴ族じゃなくて、フジリンゴ仏を作ってる時、よくママが唱えてたやつでしょ。あれ、ママ以外、みんな知らないもん」
 洗面所からは、次女と三女の笑い声がしていた。
 再び、夫と長女が顔を見合わせて、
「ママ、それ幻聴ってやつじゃない?」

 般若心経は、パート先の喫茶店でも聴こえた。
 キッチン内でサンドイッチを作っていた時だ。
 老いた男の太い声が、流れるように般若心経を唱えている。
 最初は、カウンター席の誰かが、こっそり通話でもしているのかと思ったが、カウンターでは常連さんがスポーツ新聞を読むか、フリーランスっぽい若者、学生がそれぞれのタブレットに必死に何事か書き込んでいただけで、他は空席だった。
 テーブル席も同じようなもので、向かいのスナックのママが仕事帰りに立ち寄って、そのまま寝落ちた鼾はするけれど、他には、めいめい読書をしたり、夫婦で何か話していたり、近くの総合病院が始まるまでの間、スマホで脳トレゲームをしているお婆さん、一年中ニットベスト姿の中年男性が競馬の予想を書き込んでいるだけで、とにかく誰も般若心経を唱えていそうなお客様の姿はない。
 店内を低く流れるBGMも、オーナー選りすぐりのジャズで、般若心経と聞き間違えたなどと言ったらクビにされかねない。
 出来上がったサンドイッチをディッシュアップに置くと、待ち構えていたホール担当のSちゃんが、
「内海さぁん、今日、疲れてません?」
「え、どうして」
「朝からずっと、ぼーっとしてます」
「え、うそ。ごめん。ちょっと考え事してて」
「あんまり無理しないでくださいね」
 Sちゃんは言うと、サンドイッチを受け取り、テーブルへと運んでいった。
 駅前から南北に伸びる商店街は、未だ活気を保っている、数少ない黒字経営の商店街だった。モーニングの時間帯の常連の多くは、商店街で働く人かその隠居、もしくは仕事上がりのスナックママ、そして意外に多いのが、老人相手の詐欺まがい営業を仕掛ける若い女の二人組という構成になっていた。
 昭和からある喫茶店を、平成元年にオーナーが居抜きで買い取った。
 個人ビルディングの一階に入居していて、木目調を基調とした店内、スズラン型の天井照明、どっしりした一枚板のカウンター。カウンター内はホールを見渡すキッチンになっていて、ここに蝶ネクタイにロマンスグレーの紳士でも立っていればサマになるのだが、あいにくアルバイトの中年女性である私がキッチンを切り盛りしている。
 一応、オーナーの奥さんが店長で、その妹が主任だが、朝に弱い姉妹は滅多にモーニング時間には出勤してこないので、朝の客の多くは、私を店長だと勘違いしていた。
 ランチタイムでもなければ満席にはならならい店だが、それでもひっきりなしに注文が入る。それをキッチンにいる私が仕上げ、ホール担当のSちゃんが配膳下膳をし、手のあいた方が食洗機を稼働して、洗い上がった皿やカップ、調理器具類を定位置に戻す。それ以外にも、サラダやサンドイッチの仕込みもあったりして、安い時給の割に、なかなかに忙しい。
「オーダーお願いします。ブルマン、BLT、トッピングゆで卵です」
「はーい」
「オーダーお願いします。お替わりブレンドコーヒー、ミルク多めです」
「りょうかーい」
「オーダーお願いします。アメリカン、ショートケーキ。ショートケーキの上の苺、シロップ漬けのさくらんぼに変更してもらいたいそうです」
「プラス50円でーす」
「了解です〜」
 バタバタと立ち働くうちに般若心経は全く聴こえなくなっていた。
 私はこの時間が好きだ。
「ご馳走さん!」
 会計を済ませた常連が、キッチンの私にも声を掛けて去っていく。
 なんとなく柔らかな心持ちで、プリンの上に生クリームをのせようとした時だった。
「ぎゃっ!」
 今、去っていった常連の生首が、カウンターの上でニヤリと笑って消えた。

「すぐ消えちゃったんだけどね。フジリンゴ族なら嬉しいけど、常連の生首は嫌だったなぁ」
 その夜、私は夫に事の顛末を語っていた。
 夫はやはり不安げに、
「ねえ、それって…」
「やっぱり薬のせいなのかなぁ」
「うーん、俺にはわからないけど」
 夫は私の幻覚を心配していた。 
 言わないが、薬についても、いろいろ検索しているようだった。
「まあ、しばらく薬を飲むのを辞めてみて、様子をみようかな」
 私が言うと、
「洋子さんがそうしてみたいなら」
 そして私は、その夜の服薬を辞めた。

 猛烈な違和感で、深夜に目覚めた。
 皮膚の一枚内側がピリピリと痛いような、覚えのある感覚。
 小学生の頃から、服薬を始めるまで持っていた。
 緊張だ。
 愛のない家庭で育った。頻繁に暴力も、暴言も、ネグレクトもあった日々。
 いつしか私は、家でも学校でも、職場でも、人の顔色を窺って生きるようになっていた。その頃からずっと味わっていた、緊張感。
 私は布団を抜け、夫の机を漁った。そこに、古い紙タバコがあることを知っていたからだ。若い頃、私は時折、喫煙をした。常習ではないが、結婚してパニック障害と診断された時も、夫に隠れて喫煙していた。
 父、母から酷い扱いを受けても笑っていた後も隠れて吸った。
 結婚後、義母からの言葉に泣いて、それでも夫にうまく伝えられずにいた時も。
 次女や三女が不登校になったり、夜鵟になった時も、隠れて吸った。
 何度か夫に見つかって、咎められたこともある。
 以来、慎重に、見つからないように、吸うようになった。
 ここ数年は、全く喫煙していなかった。
 だが、その晩、私は、物音も気にせずキッチンに駆け込み、換気扇をつけた。
 若いころは、タバコの代わりにリストカットをしていたこともあったが、いつしか辞めた。
 実家のガリレオ温度計が風に煽られて割れたのを、父が、別の部屋にいた私のせいだと部屋に怒鳴り込んで来て、リビングまで引き摺られた。
「片付けろ!」
 怒鳴られて、咄嗟に私は割れて粉々になったガリレオ温度計だったガラスの破片の中央にしゃがみ込んだ。母と妹は不在だった。
 笑いが込み上げ、止まらなかった。
 父が、引き攣った顔で
「よ、洋子ちゃん、怪我するよ」
「そうだねぇ」
 私は狂っていたのだと思う。
「悪い子は、お片付けしなきゃだね」
 握ったガラス片で、おもむろに、幾筋も腕を切った。
 その時の傷のいくつかは、今でも私の腕に残されている。
 沸々と涙が溢れた。
 痛さでも、情けなさでもない。
 咄嗟に私が切ったのが、腕の外側だったからだ。
 私は、こんな時でさえ、手首も切れない弱い奴。
 その涙だった。
 父が、リビングから逃げ出すのが見えた。
 エンジン音が聞こえ、どこかに出かけたのを知って、私は血まみれになった腕のまま部屋に戻り、ゆっくりと深呼吸するように、タバコを吸った。
 見様見真似で止血をし、リビングに戻ると、割れたガリレオ温度計を処分した。
 しばらくして父が戻ると、おどけたように
「よーうこちゃん、ゴーメンね!」
 節をつけて父がポーズを取ったのを覚えている。
 だからと言って、それ以降も、父の理不尽な暴力は止むことはなかったが。
 立て続けにタバコを吸うと、気分が幾分落ち着いた。
 匂いを消そうと、アロマポッドの電源を入れようとして、暗いリビングに人影が見えた。 
「…大丈夫?」
 夫が立っていた。

「こないで!みないで!」
 咄嗟に私は、包丁を掴み、自分の首元に当てた。
 自殺するつもりはなかった。ただの脅しだ。
 これ以上近寄ったら、自分の首を切る、というポーズだった。
 情けない、愚かで、馬鹿馬鹿しい行為。
 私はなんて、弱い奴。
「お願い、こないで!みられたくない!」
 しかし夫は、黙って私を見つめていた。
 暗がりで、表情は読めなかった。
「バカだと思ってるんでしょ!」
「思ってないよ」
「軽蔑してるでしょ!」
「してないよ」
 包丁をシンクに落とした。
 大声で泣いた。
「だって!母親失格って言われても、夫婦失格って言われても、女失格って言われても、何もしてくれなかったじゃん!だから!私は!私で!なんとかするんだよ!タバコを吸うと、死にたい気持ちが消えるんだよ!」
 夫が、キッチンに入ってきた。
「うん、俺も、何もできなくて、ごめん」
「私は一生このままずっと失格失格言われて、フジリンゴ族を燃やされても、ヘラへラしながら義母のそばにいなきゃいけないの!?義兄の面倒も見るの!?」
「いや、兄貴はどこかの施設に入れる」
「お義母さんは?」
「それは…」
「大事なお母さんだもんね」
 私はわざと夫に体を打ち当てて、そのまま寝室に戻った。
 夫はしばらく戻ってこなかった。






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