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うつ病の私が見ている世界 第8話

 娘たちの声によく似た、でも少し大人びた声で「ママ!」と呼ばれることがある。
 大抵、夜明け前、午前三時から四時の間だ。
 念の為、娘たちそれぞれの寝顔を確認に行くが、皆、ぐっすり眠っている。
 時々思う。
 これは、昔の私が、今の私を呼ぶ声なのかも知れない。
 私はそろそろ、自分の人生を再生させるに適した時期に差し掛かっている。

🍎 集団が怖い

 エビリファイを服薬して三日。
 飲むと眠くなる以外、取り立てて変わったことはない。
 もちろん、フジリンゴ族が現れることはなくなった。
 壁に立てかけた箒や、不意に揺れたカーテン、パート先の喫茶店での忙しい最中に視界に入る何かを人の顔に錯覚することは増えたが、常連の生首がニヤリと笑うような、ザ・幻覚みたいなものは、もう見えなくなった。
 あれ以来、義母には会っていないし、平穏無事な日常。

 そんな折、娘の学校の学習発表会が催された。
 夫が、
「大丈夫?これ、行けそう?」
 学習発表会のタイムテーブルの上に指を添えた。
 体育館での全校演劇。
 一年生から六年生までが体育館に集まって、西遊記を演じる。
 照明や、舞台セットも総動員で手作りの恒例行事。
「なんで?」
「いや、大丈夫かなって思って。行けそうならいいんだ」
 この時の夫の不安は、後で的中することになる。

 最後尾、左端の、体育館出口に最も近い席に座っていた私は、必死にトートバッグを抱き抱え、終幕を告げる会場照明が戻るとともに体育館を逃げるように走りでた。
 いや、逃げた。
 自分の子供を探す余裕もなかった。
 華やかな保護者の多い学校で、会場はムッと化粧と加齢臭、香水が熱気となって立ち込めていた。 
 出入り口を出ると、そこにもずらりと保護者の集団が待ち構えていた。
 全校演劇は入れ替わりの二部制で、次回の公演を見るために集まっていたのだ。
「ヒッ」
 喉が叫んだ。
 素敵なお召し物の保護者たちの、目、目、目、目、目、目。
 夫の声が聞こえた気がした。
 教師が私を呼び止める声。
 何人か知り合いの保護者に名前を呼ばれ、荒く短い呼吸でトートバッグを抱き、口元だけ干からびた笑みを貼り付けて、私は体育館から正門まで、バタバタと駆け抜けた。
 冷や汗が背中を伝って臀部に流れた。
 誰かに声を掛けられたが振り切って、学校が見えなくなるまで、みっともない走り方をした。ローヒールのパンプスのつま先がベロンと割れていた。
 涙が溢れた。
 嘔吐した。
 怖い。
 怖い。
 学校の大人が怖い。 
 たまたま近くで道路工事をしていた作業員の皆さんが駆け寄ってくださり、吐瀉物に水を撒き、汚れた手で申しわけないと背中にかけたタオル越しに背をさすってくれているとき、夫が私に追いついた。
 あとはよく覚えていない。
 夫が作業員の皆さんに礼を言いながら、そのまま自宅に戻って、留守番していた長女と再び学習発表会に行くことになった。
 まだ、次女のクラブ発表や、三女のパネル発表があるのだ。
「布団は敷いてあるから、寝ていてね」
 夫が言った。
「服はそのまま脱ぎ散らかしちゃってていいから」
 カクカクと私が頷いた。
 目眩がひどい。
 長女が手伝って私の服を脱がし、
「ママ、うがいする?」
「うん」
「吐いちゃったの?」
「うん」
「あるある。ドンマイ」
 夫と長女が出かけてしまうと、家の中がシンとした。
 布団から抜け出して、マウスウォッシュと歯磨きをして、再び布団に戻った。

 短いけれど、深い深い眠りに落ちていった。
 この時に見た夢を、いまだに私は整理できていない。

 スマホのバイブ音で目が覚めた。
 眠ってから、30分ほどしか経っていない。
 保護者の一人からメッセージが届いていた。

『やっほー!どしたん。辛そうだったよ。私、若い頃、パニック障害になったことあるんだ。洋子ちんがそうだとは言わないけど、何か抱えてるなら無理しないで寝てな。あと、お医者さんがくれた薬はちゃんと飲むこと。ではアデュー!』

 肩の力がどっと抜け、私は再び眠りについた。 

 松永医師の診察まで、まだ一週間以上ある。
 大勢の保護者。私は何が怖かったのだろう。
 母親失格、という義母の言葉が重く延しかかっているのだろうか。
 水を飲みにキッチンへ行き、そのままワイパックスとエビリファイを服用した。
 汚れた衣服を水洗いして、洗濯機に放り込む。
 クリーニングに出したくても、吐瀉物が跳ねた服は預かってもらえない。
 そのまま洗濯機の前に座り込んで、ドラムが回転するのを眺めていた。

 子供の頃、母は学校行事が好きだった。
 いつも派手なサングラスに、一目でそれとわかる『デパートで買った服』を着た。
 田舎だったから、デパートまで片道一時間半はかかる。
「私は銀座で働いていた時期があるから、あのデパートでは満足できないのだけど」
 子供の授業はそっちのけで、周囲の保護者たちに吹聴していた。
 私はそんな母を…尊敬せよと育てられたが、今はわかる。
 心底、恥ずかしかったのだ。
 周囲の大人たちが、軽蔑の眼差しで母を見て、あるものは憐れんでさえいたのを、子供心に敏感に感じ取っていた。
 その母の、付属品のような私。母が私に買って与えた『デパートで買った服』は幾度も幾度も雑に洗濯され、色褪せ、毛玉があちこちに付いていた。
 大人たちの憐れむ目。私はずっと、大人たちの目が怖かった。
 私も母も、出来損ないだ。
 ずっと、そう思っていたのだ。

 ドラムが回転を止めた。
 私は丁寧に衣服を取り出すと、皺にならないようハンガーにかけた。
 乾いたら、クリーニングに持って行こう。

 第9話に続く


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