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公共と私の境目
僕はカバンにトングを刺してます。それはいつでもゴミを拾うことができるようになんです。なぜ、そう思ったかはおいおい書くとして、ゴミ拾いをしながら思ったことがあります。それは、
公共と私の境目
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みなさんに質問です、
あなたはどんな時ゴミを拾いますか?
ここでのゴミは食べかけのハンバーガーにしましょう。
①家の中に食べかけのハンバーガーが落ちているとき
②家の庭に食べかけのハンバーガーが落ちているとき
③家の前の道路に食べかけのハンバーガーが落ちているとき
④近所の公園に食べかけのハンバーガーが落ちているとき
⑤駅前広場に食べかけのハンバーガーが落ちているとき
たぶん、①~③くらいまでじゃないかなーと思います。
じゃあ、家の前の前は私的空間でしょうか?
そして、近所の公園や駅前広場のゴミは拾わなくてもいいのでしょうか?
『公共』という言葉は「みんなのモノ」という思いの裏返しとして、「私のモノ」という思いが希薄なんじゃないかと思います。つまり、公共とは私たちが支えるという意識が希薄なんだと僕は思います。
でも、家の前の道路のハンバーガーを拾うことが出来るというコトは、公共の中に私が居ると思います。
ということは、
公共と私は境目があるものではなく
公共と私はとけ込み具合の違い
なんだろうなーと思います。
パブリックやプライベートといった言葉は空間や関係性に対する帰属意識の度合いで使い分けているんでしょうね。
私が集まり公共をつくり、公共の中に私がいる。
全部で643文字でした。(タイトル除く)