1年ぶりなので愛するツマと娘の話をします。
【あんまり話してこなかった出産について】
ひっさしぶりにnoteを書きます。先日、書いてほしいとリクエストがあったので「あー久々に書くかあ」と思いnoteを開いたら、なんとびっくり一年も記事を書いてなかったのですね。
まあ理由はシンプルです。
わたしはこの1年、愛する愛するツマが愛する愛する愛するムスメを産んでくれ、そして共に育ててきてましたから、noteを書く余裕などございやせんでした。
というわけで、今日はせっかくなので、そんな出産に関する記事を書きます。
いつものようなコラムではなく、振り返りの日記です。
わたしの見た出産
うちのツマは心身ともに健康優良児とは言えず(不良。健康ヤンキー児)、そもそも妊娠から出産に至るリスクが大きかった。
私自身もツマに出会うまでは独身で生き抜く気持ちでいたので、まあ環境やらなんやらが、間に合っていなかった。
結婚前提でお付き合いしていたのはそうなんだけど、もう少し先の未来として考えていた。
そういうこともあって(詳細は控えるけど)いろんなことがあったし、とにかく悩んだし、葛藤も大きかった。正直わたしには躊躇いもあった。
でも最終的には「この子に会いたい。この子の代わりはどこにもいない」という気持ちで決断した。二人でわんわん泣きながら決めた。
で、実際にめちゃくちゃ大変だったw
この辺りはまたいずれ書いていきたい(ツマの当事者性を考えるとこのことは大事な話だと思う)。
ともかく、わたしの出来ることなど殆どなかったし、出産までは兎に角ツマを支えることが精一杯だった。
実際に"旦那"という存在は、妊娠から出産に至る間はあまり出来ることが無い。
産まれたら出来ることがいっぱいあるぜー!!
という訳でもないけれど、この段階では物理的に不可能な面が多く、"旦那"でしかいられない。"父親"を感じられるのはもう少し後の話。
正直に話すけれど、時には置き去りにされている感覚もあった。それから、圧倒的な無力感だ。
ツマがつわりで顔面蒼白しているときも、何が何だかわからないお腹の痛みが襲ってきたときも、ぐりぐりと動くようになってうまく眠れないときも、そばに居るくらいしかできない。
いや言うても仕事はしてるし家事やったりマッサージやったり胎動を確認したりいっぱい調べものしたりするんだけど、それらが何かの助けになっているようには感じないほどの無力感。
それに加え、役所にいっても、病院に行っても、親戚に会っても、ツマの心配はされても、旦那のことを心配をされることはほぼない。
まあ当たり前なのは頭ではわかっているけれど、どうしても心が納得してくれなったのも事実なので隠さず書いておく。
疎外感と無力感が合わさると、孤独感さえ生まれてくる。
それはわたしが子供だからかもしれないけれど、まあそうなんだよ。
実際に、まだ親になっていないわたしは誰かの子供でしかなかった。
とはいえ人生最大のイベントを迎えるツマと我が娘の共同作業を、そんなちんけな男のプライド(という名の必殺かまってちゃん)を爆発させてる場合ではない(妊娠中におかしな行為に走る人が時にいるが、それは男の自信を取り戻したいからなのか?知らんけど)
そうは言うても、すんごいいろんな出来事もあった。
生きているか、ちゃんと育っているかと、毎日心配しているツマのためにも、自分のためにも、我が子の胎動を毎日確認した。そんな日々なのだ、いろんなことがあるに決まっている。
想像も出来ないようなことがたくさん起きた。突然、心が苦しくなることもあった。
でもこの日々には何一つ偶然の無い、必然がちりばめられた瞬間の連続であったと思う。
この辺はそのうちどこかで話せたらいいね。
まー、そんなこんなで予定日が近づく中で、わたしはすっかり自信を失った代わりに、ツマを信じる心が爆裂に大きくなっていた。
結果的に、これが立ち合いに関わってくる。
そもそもムスメは切迫早産だった。早めに産まれてしまうリスクもあったし、無事に成長はしていたものの、かなり小柄だった。
ゆえに親としては、出来ればもう少し出てこないでくれ…なんとか踏ん張ってくれ…という気持ちだった。
早産だと身体の発育にも関わるだろうし、保育器に入る可能性も高いし、まあ元々リスクを踏まえてNICUのある所にしていたけれど、仮に帝王切開になればツマの身体が耐えられないかもしれない。
また、ツマ自身も、我が子を産道を通して産んであげたい思いもあった(免疫のことを踏まえて)。
なかなかそれが叶わない人もいるだろうし、こればかりはどうしようもないとしても、やっぱり願いが叶ってほしいなというのが素直なところ。
あとね、計画性無いからさ、引っ越ししてたんだよねW
臨月に引っ越しするなよ!!!!!と今なら胸を張って言えるが(いやまあ言えないかなそういう無計画さはもはや持ち味)、とにかくすべて必死にやった結果なのだ(当時手伝ってくれた方ありがとう…)
引っ越しの前に産まれるのはとにかくまずい。大変さが爆裂に上がる。帰る場所もままならない状況で出産はきついよー。
とか思っていたが、子宮口も開いているようで、もういつ産まれてもおかしくないんじゃないか?という状況だった。
たぶん、ムスメも早く会いたかったんだと思う。私たちに。そりゃあ、毎日声かけてるんだもの。会いたくなるよね。
そして迎えた36週6日目。引っ越しが終わった。
なんとか産まれる前に引っ越せた。日付が変わって37週目に突入したその日の深夜。
破水した。
マジかよって思ったよね。ほんとにタイミング狙い過ぎだよね。
深夜だから事前に予約していた妊婦タクシー全く捕まらなかったけど、GOアプリで呼んだら普通に5分で到着したよ(おい)
そこでツマはそのまま入院することに。破水は破水だったようだが、直ちに産まれる様子ではなかったので、一旦待機となった。
わたしは早朝に帰宅することに。病院で待てせてくれてもよくないW?まあそうしてると病棟パンクしちゃうし、仕事もあるし、現実的ではないのだけど。
わたしにも願いがあった。それは、なんとしても出産に立ち合うこと。
命を懸けるツマと娘の最初の共同作業だ。わたしに出来ることはこの場でも何一つない。
けれど、そこ居ることが出来たということが、二人いや三人の今生の思い出になるだろうし、そのことがこれからの人生の支えになるとも思った。この家族にとって。大袈裟ではなく。
わたしの父は立ち合いをしてこなかった。わたしは6人兄妹なのだが、父は末っ子の時にしか立ち合えなかったらしい。
母はそのことを未だに話すことがある。命がけの作業を、愛するパートナーと共にしたいと思いが母にはあったのだろう。
人にはそれぞれ考え方や事情があるから、父はそれよりも仕事をすることで家族を支える側に立ったのか、それとも何にも考えていなかったのかは、知らぬが…w
母の今生の思い出の中には、その日にいなかった父の姿が刻まれている。わたしはそうはなりたくなかったという思いもある。
まあこういうコンプレックスも、実に子供らしい話だ。今母と父になろうとしているのは、私たちなのだけどね。
ともかく、立ち合いに全振りしていたわたしは、在宅の仕事に付いていた。
これなら、職場に留まらなくても済むし、いつでもその場に駆け付けられる。
いやいや仕事休んだらええやん、と思うかもしれないが、休んだタイミングで産まれてくれるわけでもない。まとまって休むことは経済的にも苦しいので(第2子を考えるときは2年間くらい休める貯蓄をしておきたいよ)、在宅がベストだった。
そういう訳で、自宅でぽつぽつ作業をしながら、連絡を待った。
ふらっとLINEが来るようになったが、どうもツマ曰く「先生達は夜かもしくは翌日の明朝に産まれると言っているが、もっと早く産まれると思う」とのこと。
この時に、すっかり自信を失っていたことが功を奏した。わたしはこのツマの言葉を医者よりも信じたし、自分の勘や考えなど真っ白にして、ツマの意見に従った。
なので、このLINEを見た瞬間に身支度を整え、病院に向かおうとした。さすがにこのタイミングは病院で待っていれば、連絡が来てもすぐに動けるし。
ちょうど玄関に手をかけたところでツマから連絡が来た。
「今から来れる?」と。
もう向かってるよ、と言いすぐに向かった。そもそも病院が連絡してくれると思っていたのだけど、そういう様子はなくツマからの連絡のみ。
向こうの様子が分からないから、いつまでLINEが出来るのかわからぬまま、連絡を取り続ける。
どうやら産まれそうらしい。
やっぱり夜じゃないじゃん!普通に夕方だった。油断して寝落ちてたら危ないとこだった(全然眠くなかったけど)
バタバタしながら現地の病院に。
「病院に付いたら守衛さんに立ち合いで来たと言えばOK」
と言われていたので、そのようにしたら、全然話が分かっていなくて、待ちぼうけにW いやいや間もなく産まれるかもしれないのに待ってられませんが…
ツマからも連絡が途切れ途切れで、焦りが増す。
最終ココは自分で判断し、病院内で病院に電話をかけて、総合案内に繋いでもらって案内人を呼んだ。守衛さんが悪いわけじゃない。たぶん、外部の人だから病院のことはよくわからないのだろう!
なんとかかんとか分娩室にたどり着く。
単純に初めて見るからソワソワしながら入り、特にマスクとか防護服的なのいらずそのまま入れるのね、とか思いながらいきむツマのもとへ。
何やったらいいかわからなすぎるが、とりあえずそばに言って声をかける。
正直、すごい以外の感想など無かった。
その"すごい"って良い意味で?悪い意味で?と問われても、そういうことじゃなくて、すごい、と返すしかない。
お産というのは、そういうものだなと改めて感じる。わたしなんかが、評するものでは無いな。
目の前に、人間が立っていれば、誰もがこの体験を介してそこに存在しているわけだ。
そのこともすごいと思うし、それを成し遂げてきたすべての母親は、ものすごいとしか言いようが無い。
まあこの瞬間に限ったことではないが、命が出来上がる様子というのは、本当に奇跡だなと、心から思う。
以前までは、なんとなく思っていただけだったな。命が大事なことは、なんとなくでも、わかることだから。
こうして人生の中にある、なんとなく大切なことが、確かに大切、に変わっていくんだな。そしてその体験は、一人でできるものではない。
と、書き記したが、これは今振り返ればの話で、その時は「やべーーーーーーー」以外の感情有りませんでしたw
わたしは「やべーーーーーーー」と思っている間に、あっという間に産まれた。長時間にわたる出産もあることは聞いていたけれど、ツマはかなりスムーズに行った(時間でいうと)。
あまりにもスムーズだったからか、生まれたてのムスメは「ケホッ」とだけ言って泣きもしなかったので、すごい心配になった。産まれた瞬間は泣くのが常識だと思っていたから。
この時ツマも同じような理由で心配していて、ムスメの安否を必死に確認する声を上げていたが、その時に声が今も脳裏でよみがえる。
命を懸けるツマと娘の最初の共同作業
と、その日に至るまで何度か使った言葉だが、本当に、その通りだよ。その声が、いつでもそのことを思い出させてくれる。
立ち合い出来て本当に良かった。我が子の出産に、望もうとも立ち合えない人々もたくさんいるだろう(広い意味でね。いろんな理由がそこにあるから)。だからこそ、感謝の気持ちが強くなる。
当り前じゃないことだらけなのに、必然的なことだらけ。
そんな不思議な調和が出産だったし、それに立ち合えたのも必然的なことなんだと思っている。
結果としてムスメは37週に産まれたので早産にはならなかった。低体重出生ではあったが、心肺機能などにも支障がなかったので、少しだけ退院までに時間を要したけど、保育器に入ることなく迎えることが出来た。
これも必然なんだろう。ツマも、わたしも、ムスメにも、誰にとっても都合の良い状態ですべてが終わった。
運命というものがあるのだとしたら、それは絆の中にあることなんだろうな。
終わりに
思い出しながらバッと書いた散文にお付き合いくださりありがとうございます(余談だが上で書いた気持ちに関しては基本的に全部ツマには話している。改めて言語化したものもあるから、言い回しは異なるかもしれないんだけどね)。
まあこんな風に書いているけど、ここから今日にいたるまでマジでめちゃくちゃ大変で、運命というものがあるのだとしたら、それはマジでジェットコースターよろしくのアップダウンバトルですよ、という感じなのだが、引き続き思い立ったタイミングでnoteは書いていこうと思います。
&きっとこれを読むであろう、ツマよ、改めてありがとう。心から。これからもよろしく。
&もしかしたらどこかで読むかもしれないムスメ、君のおかげでわたしは父親へのスタートが切れたよ!これからもよろしく!
では、また!
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