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上位者に対する心得
前回まで、書籍「修身教授録」に紹介されている森信三氏の目下の人に対する心得をテーマにしました。目下の人には「思いやり」と「労り(いたわり)」をもって接する、言葉遣いに気をつける、そのうえで、私情を挟むのは一線を画して話題や話の内容に気を付ける、ということを考えました。
同書には次のようにあります。(一部抜粋)
一言で申しますと、「すべて上位者に対しては、その人物の価値いかんに関わらず、ただその位置が自分より上だという故で、相手の地位相応の敬意を払わなければならぬ」ということでしょう。
すなわちこの場合大事な点は、相手の人物がその真価とか実力の点で自分より上に立つだけの値打ちがあろうがあるまいが、そういうことのいかんにかかわらず、とにかく相手の地位にふさわしいだけの敬意を払うように、ということです。
ですから時には、相手の人物が自分より劣っていると考えられ、また周囲の人々も、内心それを認めているような場合でも、とにかく相手が地位の上で上位者である限りそれ相応の敬意を欠いてはならぬということであります。ただこれだけのことですが、しかし実際にわが身の上に問題となりますと、誰にでもたやすくできるとは言えないのであります。
世の中というものは秩序の世界であり秩序の世界というものは必ず上下の関係によって成り立つものです。ところが、大事な点は、このような社会上の地位の上下というものは、必ずしもその人の、人物の真価によって決まるものではないということです。むしろそれよりも、その人の学歴とか、あるいは年齢というような、種々の社会的な約束によって決まる場合の方が多いと言ってもよいでしょう。
また実際問題としては、一応そうするより外ないとも言えるのです。それというのも、人間の価値いかんというようなことは、人によって見方も違って、なかなか決定しにくい事柄だからです。そこで今その人の人物の価値を標準にして、尊敬するしないということになると、社会の秩序というものは保ちにくくなるのです。
そもそも人間の値打というものは、人物としてその上位者よりも、その人のほうが優れているとしても、自分の地位が低ければ、それ相応に相手を立てて尊敬するところに、初めて人の心を打つものがあるわけであります。例えば学校を例にとってみても、自分が教頭という地位にある以上は、どこまでも校長を敬って、校長に仕えねばならぬのです。もしそうでなくて、「どうもうちの校長は識見が劣っているので、真面目に仕えるのはバカらしい」と言って、いささかでもこれを軽んじるような態度に出るとしたら、それは決して本当の態度とは言えないのであります。否、万一かような態度に出たとしたら、その教頭は凡庸な校長よりも、さらに劣った人物といわねばなりますまい。
そこでこれを諸君らの上に移して申せば、5年生や二部2年の人に対して、この点を履み違えないように願いたいということです。仮に先方はこちらを同輩扱いにしてくれたとしても、諸君らとしては、やはり一応先輩として対するのが本当だと思います。否そうしなくてはならぬでしょう。というのも、仮に先方は、個人としてはそうした事柄については何ら気にしない人柄としましても、事情を知らない同室の他の人から見ますと、そうした特別の事情は分かりませんから、諸君らが変に見えるわけであります。
つまりは、すべての上位者には、上位者たる何らかの理由が存在するということなのでしょう。例えば仮に、自分より上位の地位で何かの役職を務めていて、どう見ても能力が乏しく年齢以外に同役職を務めている理由が見いだせない人がいるとして、そのようにしたのは登用理由を年齢に求めるのが妥当と組織が決めたからだということです。
この問題について、森氏は「真面目な人ほどつまずきやすい」と説きます。なぜなら、この問題にまったくつまずかない人間は、何ら気骨のないお人よしの人間か、功利打算の人間だからというわけです。つまりは、わけもなくぺこぺこするか、自分の利欲のためにまめまめしく勤めるかのタイプであれば、どんな人が上位者だろうと何の疑問ももたない。実力がないと思われる上位者に対しては、違和感をもっているのが通常の感覚だということです。
違和感をもちながらも、相応の敬意を払って、正しく素直に仕える。言ってみれば、そのようにして全体の秩序を守ることのほうが、自己の主張により部分最適を目指すよりも、意義が大きいということなのだと思います。
もし今後の組織を取り巻く環境を見定めた場合に、異なる登用をすべきということであれば、議論した上で役職の考え方やルールを変更し、新しい人物を登用すべきである。そうした手続きを踏まずに、その上位者に直接食ってかかるのは秩序の観点から間違っている。それが、森氏の示唆なのだと思います。
組織のフラット化や心理的安全性などが、組織の重要テーマとして認識されてきています。これらを推奨する意義は、上位者・下位者含め、メンバー間で非難や否定的な反応がないという安心感のもてる環境下で、情報共有やアイデアの提案が活発になり、メンバーや組織の可能性を最大限に高めることにあるはずです。組織やメンバー、仕事への不満を、相手への配慮なしに自由に発言すればよいというものではないでしょう。しかし、この点を混同してしまい、組織の秩序が乱れてしまっている会社を時々見かけることがあります。
「人間というものは、実はそうしたことによって、初めて人間として鍛えられる」とも森氏は説いています。
そうした場合の切なさ、辛さを知らないような人間は、たとえ学科が少しくらいよくできたからとて、人間としては、実はお目出た人間と言わねばなりません。かくして、社会的秩序の上における上下の関係というものは、いわば世の中の「約束ごと」ともいうべきものでありますから、これを履み外すということは、同時にそのまま、世の中そのものから履み外して、社会の落後者となる外ないのです。
もちろん、最終的にどのようにふるまうかは、個々の置かれた状況による面もあると思います。書籍の時代の当時と今とでは、環境の違いもあると思います。そのうえで、同書の示唆は、社会や組織のモラルの観点から、今にも通じる本質の一端だと捉えるべきことだと感じます。
前回から、上位者の下位者に対する、下位者の上位者に対する心得を、考えました。双方がそれぞれの立場からこのような心得をもって関わり合うことができれば、組織の生産性や風土もずいぶん向上するのではないかと思います。
<まとめ>
すべての上位者に対して、相手の地位相応の敬意を払う。